うのんのブログ

奈良西の京薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№94

水争い
時代は下って約八十年後の元禄十三年(1700年)六月二十七日河内の農民の手によって井出を切り落とし水を河内に流されましたが 名柄の庄屋髙橋佐助の奔走により 大和側の主張が正し和解となりました。一カ年後の元禄十四年(1701年)五月六日万字が滝古瀬口の両水が再び河内の農民によって切り落され河内側千余人が鋤 鍬 鎌等を持って水口に集合し 大和側も続々峠に集結して将に血を見る惨事を引起さんとする有史以来の大事件となりました。
 大和側は厳に実力行使を避け黒白を法廷で決せんと事件を京都所司代に移しました。名柄の佐助他六人の庄屋は急ぎ上京しあわただしい日日が続きました。また佐助より連絡を受けた関屋の小左衛門は父の叔父に当たる岡崎満願寺の東山天皇に親任篤い日享上人にお願いのため佐助 忠兵衛同道助力を願い出ました。当初は出家の身の故を以て聞き届けられなかったが 彼等の並々ならぬ決意と 村を護る熱情に動かされ遂に助力の約束を頂きました。かくして日享上人の格別の助力により 現地へ検使派遣が決定して検使奉行によって現地検証が行なわれました。その結果金剛山は大和領であり水越峠の水は勿論元禄の遙か以前より大和へ流れ落ちていた事実が証明され全村民が生命を賭けて争った水論 境論も 元禄十四年(1701年)十二月二十一日大和側の勝訴となりました。山林の所有枚も自然に大和側のものとなりました。

金剛山山頂から流れ出てきた水の取入口付近から御所市方面を眺む

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