うのんのブログ

奈良西の京薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№95

水争い
世に伝えられている水越峠の水論を荒削りに結末をいそぎましたが 最後に髙橋佐助について御所市に盆踊歌が残っています。
年が七つで 銘柄の佐助 夜の真中に 我が家を出て 山の絶頂登りつめ 大和吐田八ヶ村 大豊年にするー中略-わしの生命も もう三年あれば吉野川の水を重坂(へさか)に流した。
盆踊り歌に唄われた髙橋佐助は寛文四年(1664年)名柄村の庄屋髙橋宗清の長男として
生れ水越峠の水争いの頃は三十中葉であり 歌詞は当然その後に生れたものであるが 吉野川の水を重坂へと云うオリジナルの発想は彼の頭の中には吐田郷の不安定な水不足を補給するだけに止まらず更にひろい地域の灌漑用水確保を念頭に吉野川の水量に目をつけた偉大な人物であったことが判ります。
髙橋佐助は天文元年(1736年)七月に没しましたがその後1789年幕府の代官角倉玄匡(はるまさ)がよしの分水をくわだてました。次に現れ計画を練ったのは乾十郎でいずれも実現に至らず 更に明治前期からも分水計画の立案が相つぎ宇陀川分水案も浮上しました。大正から昭和にかけても分水計画は種々立案されましたが 陽の目を見ず終わりました。 紆余曲折を圣た吉野川分水は戦後総合開発事業の進展によって 吉野川分水計画が緒につきました。当時のマスコミは「元禄以来の夢が実現か」と云う表現で 県民悲願が間近いことを伝えました。髙橋佐助の悲願がここに結実しました


祈りの滝

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