「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「吉野の民話」から
「吉野の名所・旧跡」の紹介をしてます。
今の吉野は桜がきれいな時期ですね



外部資料
「桜本坊」の歴史は、大海人皇子(後の天武天皇)が吉野に逃げてきたのに始まると伝えられています。ある日、大海人皇子が、桜が咲きほこっている夢を見、その意味を占わせてみると「将来、天皇になる」とのことでした。その夢で見たとおりの場所に寺を建てさせたのが始まりと言います。今も桜本坊には「天武天皇夢見の桜」があります。また、樹齢三百年のキンモクセイもあります。


竹林院

外部資料
竹林院は、聖徳太子が開いたとも空海が開いたとも言われています。寺を中興した日臓上人道賢は多くの物語にも登場し、「地獄めぐり」で有名です。また竹林院には、群芳園という庭園があります。大和「奈良県)三庭園の一つに数えられています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

コロナ渦いかがお過ごしになっていらしゃいますでしょうか?
吉野は今桜が見頃のようです。
コロナでなかなか自由には楽しむことは難しいですね
「吉野の民話」から
「吉野の名所・旧跡」
吉野山に来て、最初に目に入るのが金峯山寺(蔵王堂)です。吉野から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金峯山と呼ばれてきました。今から約千三百年前、この金峯山に役行者が、桜の木に蔵王権現を刻んでおまつりしたのが金峯山寺の始まりと言われています。
役行者にかかわりの深いお寺として、東南院、喜蔵院、桜本坊、竹林院があります。天川村洞川にある龍泉寺とともに山上ヶ岳の頂上にある大峰山をお譲りするお寺(護持院)です。
まず東南院です。金峯山の巽の方角(今の東南の方角)をお譲りするという意味から寺の名前がつけられました。代々多くのお坊さんを出しました。木曽(今の長野県)にある御嶽山を開いた覚明行者もこの東南院から出ました。

喜蔵院は役行者をおまつりするお寺です。聖護院宮が大峰山へ参る時には、宿坊となりました。現在も宿坊としての役目を果たし、ユースホステルも兼ねています。また、絹で織られた布に三十六種の桜を描いた「桜の譜」が有名です。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

ますますコロナが拡がってます。
吉野の山々は神秘的 神様に抱かれている感じがします。
「吉野の民話」から
「吉野の生活」
奈良県を二分して東西に流れる吉野川。その南、県全体の約六割の面積を占める地域が吉野群です。千四百~二千メートル近くに達する近畿地方で最も高く険しい山が連なるところから、「近畿の屋根」ともよばれています。古くから信仰の地として知られ、修験者などの行き来が盛んでした。
この地域には傾斜地に集落が点在し、地形的制約から間取りや建て方に工夫をこらし、豊富な木材を木の皮まで余すところなく利用した家が建ち、山村独特の風景を作りだしていす。
主な産業は林業で、木を切り、用途に応じて加工し、山から運び出すまでの様々な仕事が行なわれました。木で器などを作る木地師、製材をする木挽き、炭焼きなど、山の中を移動しながら仕事をする人々もいました。今からおよそ三百五十年あまり前には人の手で木を植え育てる植林も行なわれるようになりました。
耕地に適した平地は少なく、急こう配の土地に田畑を作り、ところによっては焼き畑が行なわれました。麦、あわ、ひえ、きび、そばなどの雑穀や芋類などに加え、栃や樫などの木の実、山菜きのこ類、狩猟で得た獣、川魚などの山の幸が大切な食料となっていました。
人々は、厳しく危険も多い一方、様々な恵みをもたらしてくれる山を深く怖れ敬ってきました。毎年十一月七日(または一月七日)に山の神をまつるほか、日々の暮らしの中でも山では常に言葉や行ないを謹むのが山人のゆかしい習わしです。

薬師寺近くの うのん から 卯月 4月のお知らせ

今月のお薦めの本

奈良県の王寺です 龍田神社は風の神様がいらっしゃいます。


本のある喫茶店 うのんの今月の予定
お休み 5日(月)6日(火)
    12日(月)13日(火)
    18日(日)19日(月)20日(火)
    26日(月)27日(火)
貸切予定 2日(金)11日(日)14日(水)
コロナウイルス感染症対策のため 1日1組4名までとさせていただいてます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

今日もコロナ感染者数更新 互いに気を付けましょう。
家にいる時間増えているでしょうか 
その時間に当店の所蔵している書物の紹介内容を読書していただくと幸いです。
「吉野の民話)から
「五郎宗岩」(ごろうそういわ)
東吉野村の高見山に、五郎宗岩とも、ゆるぎ岩とも呼ばれている大きな石があります。だれも持ち上げられないほど大きな石です。平野に住む五郎宗岩という力持ちの男が持ちあげたいということから、五郎宗岩と呼ばれるようになりました。
成人した五郎宗は、力持ちになりたくて、
「毎日、一本ずつ竹を持って登るから、百日目には、百本の竹を持って帰るだけの力持ちにしてほしい。」
と、高見山に願をかけました。ところが、満願の百日目、いざ、百本の竹を抱えたところ、足が道にめりこんで動きません。しかたないので、
「人一倍の力でいい。」
と言って、その力をもらって帰ったそうです。
五郎宗は、駕籠かきを仕事としていました。ある日、お客があっても相棒がいないので、後ろの駕籠にお客さんを乗せて、前に大きな石をぶら下げて、前に大きな石をぶら下げて、ひとりで駕籠をかついで高見山まで登っていったそうです。
また、あるときは、俵二俵を両方にわけてかついだ牛が道のまん中に立っていました。
「五郎宗、邪魔になるからどけてくれるか。」
ろ、頼まれ五郎宗は、
「邪魔になるかのう。」
と言いながらも、俵を積んだままの牛を抱えて、ひょいっと道の横の方へ置いたそうです。
また、ある日、五郎宗が牛を追って町を歩いていたら、大名行列に出会わせて終いました。警護の武士がやってきて、
「早く、よけさせるように。」
と五郎宗に言ったのですが、急なことでが、牛もすぐには動けません。そこで五郎宗は、牛をかたにかついで、ポイ、ポイと横に寄せたということです。