「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

富雄村の歴史
「日本に神武に神武天皇の皇軍が長髄彦との戦いに勝つことが出来なかった時 雨が降り金色の霊鵄が飛んできて 天皇の弓のゆはずにとまったので、金鵄の光で長髄彦の軍は迷眩えて戦うことが出来なくなった。
「長髄は是邑之本號なりて因て似て人の名と為す。皇軍が鵄の瑞を得るに及んで、時人乃ち鵄邑と号す。鳥見と云うは是訛也」とある。この鳥見邑というのはこの金鵄からなづけられたということである。
昭和15年建国紀元2600年にあたり 橿原神宮の神域の拡張工事がおこなわれた。神武天皇の聖跡もあわせて調査された結果 鵄邑は 「几ソ北倭村(現在生駒市)及び富雄村(現在奈良市)二亘ル地方ト認メラレ」とされ、生駒市上村町と二名町との境界近くに「神武天皇聖跡鵄邑顕彰碑」が建てられた。

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富雄街道
西の京から西側になります。
富雄川に沿った地域で、明治22年4月1日市町村制の実施にともない、二名 三碓 中 大和田 石木 の五ヶ村を合併して自治体として富雄村ができたが、富雄村の歴史は弥生時代までさかのぼる。

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西大寺
西大寺は大阪 奈良を結ぶ近鉄奈良線から、京都 橿原市から吉野に向かう電車の乗り換え駅です。
西平城京平城京から南に向いても右 右京にあたる所に称徳天皇(女性天皇)が東大寺にならって創建されたお寺です。
藤原仲麿の反乱があったので、再び起こらないようにの願いをこめて国家鎮護の仏像とされる 四天王像を発願されたのがこのお寺の濫觴となった。
西大寺は その後火災にあい 宝物は消失した。現在の西大寺は創建当時は及ばないが、南都七大寺の一大寺として 存在する。消失した広い境内では 田圃 芝原と化したが 町名で 西大寺本町 西大寺小坊町 西大寺芝町西大寺野神町などといってのこっている。

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伏見
京都にも 伏見 はある 
奈良の伏見はの由緒については諸説ある。
フシミは「伏せ水」で、地下水が地下にもぐっている地形地名である
西の京丘陵は 上部から 砂礫の端の割れ目から地下水が泉となる。
秋篠寺 唐招提寺はこした水にめぐまれた地域を利用して立地している。
また別の説では、聖武天皇が大仏殿を建立の際、何国からきたのか一人の老翁が 現在の伏見が丘に来て、3年間 頭を北面 東向に伏していた。そして この翁を「伏見ノ翁」と名付けた。天平19年大仏殿がつくられた時 行基菩薩と波羅門僧正が この翁の所にやってきたので、翁は立ち上がり 笑みをうかべて 菅原寺に入った。その後翁を姿をけした。
村達は 翁のことをい 行基にたずねると 東大寺の守護神であるといったのでこの地を東大寺の守護神影向の霊地とした。

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尼辻町
近鉄橿原線西の京駅から一つ北側の駅が尼ヶ辻駅
尼辻町の町名の由来については 唐招提寺を建てた鑑真和上に関係する。
鑑真和上が唐招提寺を建立するために、中国の伝統 甘味の土地が聖地 都の考えに基づいて 各地に求めたところ この土地が甘味があったので、ここに東証を建立することになった。尼辻は甘壌から来た町名である。 今の都跡小学校は 甘壌小学校と呼んでいた。甘壌がいつのころからか 尼辻 となったかは詳ではない。
一説には 平安時代に興福院町に興福院と称する尼寺があったところから町名となったとの伝承もある。