「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

奈良
平城京は東西4.2キロ南北4.7キロといったほぼ正方形に近い形で校正された。東西 南北に碁盤の目のように大路が設けられたが、京東に一条から五条までの区域を延長して外京とし、五坊 六坊 七坊 と拡張され、東西5.9キロ南北4.7キロとなった。現在の旧奈良市は主として拡張された外京の地に発展した町である。
平城京遷都とともに 飛鳥地方にあった寺院がつぎつぎに平城に遷され、名を興福寺 大安寺 元興寺 薬師寺 葛城寺となり、仏教の隆昌にともない総国分寺として東大寺 総国尼寺として法華寺が創建され、新薬師寺 西大寺 西隆尼寺 紀寺 秋篠寺等が建立されrた。
平城京は七十余年間 後生「咲く花の薫うが如し」歌われるほど隆盛をきわめたことは万葉集から推察できる。

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奈良
奈良の町は大和高原の傾斜が緩やかに西に延びた丘陵から平坦にかけて発展した町である。
「平城ノ地西しきおんづ二叶ヒ三山鎮ヲ作シ亀筮並フ。宜シク建ツベシ」とおおせられ、和銅3年(710)ここを都に遷された。
遷都以前。すでに和爾氏 などが住んでいたことは日本紀 日本書記に記されている。また平城京跡の西方には弥生時代の住居の跡 古墳(開化天皇 春日率川坂上陵 仁徳天皇皇后 平城坂上陵 うわなべ こなべ の古墳) など5世紀 から6世紀の古墳と古市古墳郡が現存することから 遷都いぜんから開けていた。
平城遷都後は大きく発展した。

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富雄街道
富雄地区に人が住み始めたのは、登彌神社附近や藤ノ木から石器や土具が出土し、大和田町では前方後円墳といわれる丸山古墳から 鏡 玉 琴柱 などが発見されている。そのことから古墳時代には人々が住んでいたことがわかる。
奈良時代になると 降福寺 降福寺尼寺が行基によって添下郡登美村に建てられた。霊山寺の創建もこの時代もこの時代と云われている。
奈良時代には相当人々が住み着いていたと思われる。

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富雄村
神武天皇との戦いに負けた 長髄彦とゆかりの深い神社として 今は石木町と呼ばれる所に登彌神社がある。2月1日には かゆ占い でその年のイネの生育占うことで有名です。
西の京 勝間田池から徒歩15分から20分の距離 富雄川に沿った小高い丘に鎮座してられます。
ここは、高皇産霊神・誉田別命・神皇産霊神・登美建速日命・天児屋根命を祀っているが、昔は木嶋神社と呼ばれた。ここから少し西の大和田町に「追場彦森」と呼ばれているところがある。長髄彦が追いつめられて、ここで、誅せられた墳墓の地で、大和田の地名もこれから転訛したとも考えられる。

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富雄村の歴史
「日本に神武に神武天皇の皇軍が長髄彦との戦いに勝つことが出来なかった時 雨が降り金色の霊鵄が飛んできて 天皇の弓のゆはずにとまったので、金鵄の光で長髄彦の軍は迷眩えて戦うことが出来なくなった。
「長髄は是邑之本號なりて因て似て人の名と為す。皇軍が鵄の瑞を得るに及んで、時人乃ち鵄邑と号す。鳥見と云うは是訛也」とある。この鳥見邑というのはこの金鵄からなづけられたということである。
昭和15年建国紀元2600年にあたり 橿原神宮の神域の拡張工事がおこなわれた。神武天皇の聖跡もあわせて調査された結果 鵄邑は 「几ソ北倭村(現在生駒市)及び富雄村(現在奈良市)二亘ル地方ト認メラレ」とされ、生駒市上村町と二名町との境界近くに「神武天皇聖跡鵄邑顕彰碑」が建てられた。