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#春日大社の御田植祭 3月15日
外部資料

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この祭りは、五穀豊穣を祈願する祭典で、御田植祭と御田植神事からなっている。
「社記」によると「二条天皇の御代の長寛元年(1163)正月の申の日にはじめておこなわれた」とある。祭典の方法については精しい記録がないので詳かではないが、比較的精しい記録を伝えているのは、天文五年(1740)に村井古道の記した「南都年中行事」である。
現在、春日大社でおこなわれている御田植祭とは、ほぼ同じで、わずかに衣装の一部があらためている程度である。
この行事は「社記」のも記されているように、古くは正月の申の日におこなわれていたが、明治五年(1872)に神社改めがあり、それ以来、現在のように三月十五日となった。
御田植祭
午前十時から本社でおこなわれてる。まず修祓にはじまり、次に神饌を撤して大社での祭典は終わる。
つぎに若宮・榎本神社に参進し、大北と同じ祭典があって御田植祭は終わる。
御田植神事
午前十一時、神楽男・八乙女・田主(たぬし)以下各役の人々が若宮神社の神楽御殿前に参集し、そろって修祓を受けたあと、林檎の庭で御田植の神事にうつる。
まず、唐鋤行事と称する田圃を耕す作業からはじまる。白丁の姿の「口取り役」が、紺布に身をつけ、頭に牛の面をかぶり牛に扮した牛男をひき、鳥帽子に素袍の作男が唐鋤をあやつり田圃を耕す所作をしたがら、林檎の庭を三周してこの行事を終わる。
次に鍬行事にうつる。これは鍬で田圃を耕す所作で、作男は庭の中央に進み、一損した後、鍬をとり、中央正面で左・右・中と三度、土を耕す所作をおこない、さらに左面・右面で同様の動作を繰りかえし、一損して終わる。
次は馬把(まくわ)行事で、耕やかされた土をならす作業である。唐鍬の行事と同じように馬把(まくわ)をあやつりつつ庭を三周する。
次は地産(ちさん)行事で、「こまざらえ」と称する農具を使って鍬行事と同様に土の凹凸をなおし、田圃を平にし、一損して終わる。
これで一応、田圃造りは終わり、いよいよ八乙女による御田植の所作に移る。
朱塗りの中門を前に、素木造りの幣殿・舞殿を後にし、美しくは清められた白砂の林檎の庭に、白衣の緋袴をはき、腰に桧笠(俗にかえるかごという)をさげ、赤い襷をかけた八乙女が神楽男の「わかたね うえほよ 苗たね うえほよ」とうたう御田植歌のリズムにのせて、静かに御田植舞と田植、それに豊作の所作などしとやかに演ずる光景は、優雅で、王朝の昔を如実にしのばせる。約30分ほどでこの神事は終り、続いて榎本神社・若宮神社で同様の神事が繰り返される。
神事が終わった後、参拝者の希望により、松苗を授ける。江戸時代には若宮御供所で参詣者に授与されたほか、二の鳥居から社頭にかけて、松苗や蘇民将来の守などおびただしく販売していたことが「南都年中行事」に記されている。
これらの松苗は害虫の災を防ぐために苗代の水口にさす風習は今も残っている。
この松苗は江戸時代に百毫寺村の杉町の松葉を用いたことが故実になっていると、「南都年中行事」に記されている。
御田植歌
一 わかたね うえほよ
  苗 たね うえほよ
  おんなの手に手をとりて
  ひろいとるよ
  ヤレヤレ ヤレヤレ


二 みましも しげや
  わかなえ とるてや
  しらたま とるてこそ
  しらたまな
  ゆらや とみくくさの花
  ヤレヤレ ヤレヤレ


三 ふくまんごくに
  ほんごくへ
  うえちらして
  手に手をとりて
  ひろい とるとる
  ヤレヤレ ヤレヤレ



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■℡  0742-43-8152

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