「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

奈良
奈良の地名については、種々の説がある。「日本書記」に「崇神天皇の御代に武埴彦王がその妻、吾田媛と不軌をはかり、山背(城)から大和にはいろうとしたので、天皇は大彦命と彦国葺命をして、これを討たしめた。その時、官軍の精兵が「那羅山」に屯集し、草木を踏み慣したので、この山を「那羅山」と呼ぶようになった。」
とある。そのほか、仁徳天皇紀に、「卅七年十一月甲戌朔乙酉、皇后を那羅山に葬しまつる。」とあり、また、武烈天皇紀に「平群の鮪臣(しひおみ)」とある。
「なら」を表わす漢字にも、奈良、樽 平 那羅 乃楽 寧楽 名良 などといろいろあるが、奈良山 佐保 左紀山 は山というより丘陵といった方がふさわしいなだらかな山で、元明天皇が都を莫められた平城の地もなだらかなところで、平の字をもって「なら」を表現されちぇいるところからすると「なら」の地名はこうした自然の地形から生まれたものと推考される。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

奈良
都が平安(京都)に遷ったのち、平城京をはじめ平城京の大部分は草原と化したが外京ならびに左・右京に建立された諸大寺はそのまま残り、国家鎮護の寺院としてまた仏教の学問寺として貴重な存在となり、有名な高僧も続出し、国家の平和と国民の豊楽に大きく貢献した。
興福寺の如きは藤原氏の氏寺として、藤原氏の氏神である春日大社とともに大きく発展し、僧坊百十余字を数え、僧侶も三千余を数えるといった盛況振りであった。
したがって、これらの寺社を支える諸々の技術者や商人たちが必然的に寺社の周囲に居をかまえるようにうなり、ここは社寺の門前町が誕生した。今日の奈良を築く土台となったのである。

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奈良
平城京は東西4.2キロ南北4.7キロといったほぼ正方形に近い形で校正された。東西 南北に碁盤の目のように大路が設けられたが、京東に一条から五条までの区域を延長して外京とし、五坊 六坊 七坊 と拡張され、東西5.9キロ南北4.7キロとなった。現在の旧奈良市は主として拡張された外京の地に発展した町である。
平城京遷都とともに 飛鳥地方にあった寺院がつぎつぎに平城に遷され、名を興福寺 大安寺 元興寺 薬師寺 葛城寺となり、仏教の隆昌にともない総国分寺として東大寺 総国尼寺として法華寺が創建され、新薬師寺 西大寺 西隆尼寺 紀寺 秋篠寺等が建立されrた。
平城京は七十余年間 後生「咲く花の薫うが如し」歌われるほど隆盛をきわめたことは万葉集から推察できる。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

奈良
奈良の町は大和高原の傾斜が緩やかに西に延びた丘陵から平坦にかけて発展した町である。
「平城ノ地西しきおんづ二叶ヒ三山鎮ヲ作シ亀筮並フ。宜シク建ツベシ」とおおせられ、和銅3年(710)ここを都に遷された。
遷都以前。すでに和爾氏 などが住んでいたことは日本紀 日本書記に記されている。また平城京跡の西方には弥生時代の住居の跡 古墳(開化天皇 春日率川坂上陵 仁徳天皇皇后 平城坂上陵 うわなべ こなべ の古墳) など5世紀 から6世紀の古墳と古市古墳郡が現存することから 遷都いぜんから開けていた。
平城遷都後は大きく発展した。

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富雄街道
富雄地区に人が住み始めたのは、登彌神社附近や藤ノ木から石器や土具が出土し、大和田町では前方後円墳といわれる丸山古墳から 鏡 玉 琴柱 などが発見されている。そのことから古墳時代には人々が住んでいたことがわかる。
奈良時代になると 降福寺 降福寺尼寺が行基によって添下郡登美村に建てられた。霊山寺の創建もこの時代もこの時代と云われている。
奈良時代には相当人々が住み着いていたと思われる。