「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

奈良 高畑
高畑は春日神社 興福寺の社寺領東山間の入口でもあったことが発展の一因である。この道を柳生街道と呼んでいる。
平安時代に入って山岳仏教が盛んになり、忍辱山町に圓成寺 鹿野園 誓多林 忍辱山 大慈仙といった釈迦にゆかいの地名なども生まれ、東山中は興福寺 東大寺 元興寺 といった南都の諸大寺の修養場となった。鎌倉時代には興福寺の解脱上人が笠置に修道場を再興したので、奈良と笠置を結ぶこの道は、一層僧侶の修業道となり、各所に弥勒菩薩 地蔵菩薩などの仏像が石に刻まれることになったのである。
高畑は東山中への入口となったのである。

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奈良 高畑附近
この地は大和高原が西に緩やかに伸びた見晴らしのよい台地となっていたところから高畑(高畠)といった地名がうまれたと考えられる。
古くは春日野と呼ばれていた。大昔には和爾氏の一族であった春日氏がここに住み栄えていた。
平城遷都後に藤原氏が春日神社を創建し、新薬師寺がここに創建された時からである。その後、都は京都に遷ったが、藤原氏の勢力が盛んになるにつれて、氏神をまつる春日神社、氏寺の興福寺の勢力も一層増加した。したがって、この両社に関係する人々も自然と多くなり、この地が春日神社にも近く 風景もよいところから住まいをかめることになっていった。

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奈良
奈良の地名については、種々の説がある。「日本書記」に「崇神天皇の御代に武埴彦王がその妻、吾田媛と不軌をはかり、山背(城)から大和にはいろうとしたので、天皇は大彦命と彦国葺命をして、これを討たしめた。その時、官軍の精兵が「那羅山」に屯集し、草木を踏み慣したので、この山を「那羅山」と呼ぶようになった。」
とある。そのほか、仁徳天皇紀に、「卅七年十一月甲戌朔乙酉、皇后を那羅山に葬しまつる。」とあり、また、武烈天皇紀に「平群の鮪臣(しひおみ)」とある。
「なら」を表わす漢字にも、奈良、樽 平 那羅 乃楽 寧楽 名良 などといろいろあるが、奈良山 佐保 左紀山 は山というより丘陵といった方がふさわしいなだらかな山で、元明天皇が都を莫められた平城の地もなだらかなところで、平の字をもって「なら」を表現されちぇいるところからすると「なら」の地名はこうした自然の地形から生まれたものと推考される。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

奈良
都が平安(京都)に遷ったのち、平城京をはじめ平城京の大部分は草原と化したが外京ならびに左・右京に建立された諸大寺はそのまま残り、国家鎮護の寺院としてまた仏教の学問寺として貴重な存在となり、有名な高僧も続出し、国家の平和と国民の豊楽に大きく貢献した。
興福寺の如きは藤原氏の氏寺として、藤原氏の氏神である春日大社とともに大きく発展し、僧坊百十余字を数え、僧侶も三千余を数えるといった盛況振りであった。
したがって、これらの寺社を支える諸々の技術者や商人たちが必然的に寺社の周囲に居をかまえるようにうなり、ここは社寺の門前町が誕生した。今日の奈良を築く土台となったのである。

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奈良
平城京は東西4.2キロ南北4.7キロといったほぼ正方形に近い形で校正された。東西 南北に碁盤の目のように大路が設けられたが、京東に一条から五条までの区域を延長して外京とし、五坊 六坊 七坊 と拡張され、東西5.9キロ南北4.7キロとなった。現在の旧奈良市は主として拡張された外京の地に発展した町である。
平城京遷都とともに 飛鳥地方にあった寺院がつぎつぎに平城に遷され、名を興福寺 大安寺 元興寺 薬師寺 葛城寺となり、仏教の隆昌にともない総国分寺として東大寺 総国尼寺として法華寺が創建され、新薬師寺 西大寺 西隆尼寺 紀寺 秋篠寺等が建立されrた。
平城京は七十余年間 後生「咲く花の薫うが如し」歌われるほど隆盛をきわめたことは万葉集から推察できる。