「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五條のむかし話」から
「今弁慶」
むかし、五條の東浄に今弁慶とよばれる力もちが住んでいました。弁慶の生まれかわりだといううわさされるだけあって、からだは、はがねのよう。背は
あくまで高く、胸にははえた毛は、まるで針のようであったといいます。
その今弁慶が、ある時、東浄の寺
「のつりがね堂で昼寝をしていました。といっても、
「わしが昼寝のさいちゅうに、小坊主めに、つりがねをつかれるとうるさくてかなわぬ。」
重いつりがねをひょいとじべたにおろしての昼寝です。春の日はのんのん、風はさやさや。折しも本堂では、お坊さまのあげるお経を子守歌に、今弁慶はぐうぐう高いびき。
と、出し抜けに寺の外で、ズドーンと鉄砲の音がしました。せっかくの昼寝のじゃまをされた今弁慶、
「あんだらめ、町の中で鉄砲をうつとは、どこのどいつじゃ。」
かんかんに腹を立ててふと見ると、塀の上から鉄砲の先がにゅうっとのぞいています。こいつだな、と思い、むずと銃口をつかんで奪い取ろうとしました。塀の外の鉄砲をにぎっている男も、力もちとみえてなかなかはなしません。えいえいとひっぱっているうちに、とうとう鉄砲は、ぐんにゃりとまがってしまいました。
「ありゃあ えらいこっちゃがな。外におるのはいったい誰や。」
のぞいてみると、これも力もちで知られた、御山村の野原助兵衛です。
「なんじゃ、おぬしか。」
「そういうおまえは今弁慶。」
二人は、顔を見合わせて、からからと笑いました。
「今弁慶が相手なら むりをするのやなかったわい。鉄砲一丁そんしたんか。」
助兵衛は、曲がった銃身を元どうりにして、行ってしまいました。ついでにいえば、この野原助兵衛、秀頼と家康が戦った大坂夏の陣に百二十キロもの鉄棒をふりまわして戦っていましたが、流れ玉にあたって討ち死にしたということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五条のむかし話」から
「井上内親王」

「それから 何年かしてなー御陵より大鳥がとんできたんやと何のしるしかと思ってな 裕美という人に占ってもらうと『ここが雷神王ゆかりの地だ 神社をたてて おまつりしなさい』と、いわれたとかで、そのとき建てられたのが 牧野の御霊神社なんだよ。文明四年(1473)の建築で うちの先祖の藤原直尹(ちょくいん)が 大担主(中心ということ)となって建てられたのやそうな。」
「こんど 私が行く 牧野小学校のそばにある神社のことなの。」
あな大鳥がとんできてなーこんどは うちの家の椋の木に止まったんやって、それで おおぜいの人がうちに集まってなー神楽を奉して おまつりし 一日を楽しくすごしたんだと。」
私は、庭の片すみにある大樹 何百年もたっていると聞かされている椋の木に 止まった大鳥を想像しながら
「それで。」
「それからな、人々は この椋の木のあるうちのことを 和所と呼ぶようになったんだと、里人が みんな集まって、楽しくなごやかに すごした所、和という字は、なかよくするとか、なごやかという意味を、持っているやろ。和の所という意味で だれいうともなしに 和所と いい出したのやそうな、 それが家号となったということや。」
語り終わった母が、井上内親王さまのことを思ってかいつまでもゆめみるようなまなざしでじっと遠くを見つめておりましたのが おさなかった 私にとって 釜窪 霊案寺という地名の由来と ともに わすれあれない 記おくの一つでござおいます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

五條には「天誅組の変」という幕末の尊攘派の志士たちによっておこさあれた事件がある。徳川から明治に代わる 熱き思いの初まりの地ではないかと思います。
その五條に伝わる話を紹介しています。
「五條のむかし話」から
「井上内親王」
私は、近ごろになって 毎晩のように 母に おとぎばなしをせがんだ遠い昔を思い出します。母は そのたびに
「きょうは 何の話をしようかね。」
そういいながら 五つ 六つしか持ち合わさない 昔話の 一つか二つを選んで 聞かせてくれたものでした。
ちょうど 小学校へあがるころだったと思います。ふと
「なんで みんな うちのことを 和所(わしょう)とよぶの。」
と いった私に 母は
「毎晩 同じ話だから 今夜はひとつ 和所という 屋号の由来と、いい出したものです。
私の家の苗字は 桜井なのに どうして近所の人々が 「和所」とか 「和所の桜井」とか呼ぶんだろう。ーという疑問はありましたが 小さいころから 聞くきなれていたためか 
それが あたりまえのことと 別に気にもしていなかったのです。

「配所(はいしょ)の月」
そいうって 母は しばらく 遠くを見つめているようでしたが、いつものように ポツリ ポツリ 話し出しました。
「おぼえているやろ 太宰府に流された 天神様のお話を。」
私は、まくらをうごかさずに うなずいたものでした。
「その天神様 すがわらみちざね公みたいに 流されて この五條の地でなくなられた 皇后様がおられてな-」
話は、しんみりして参りました。
「その方はな 光仁天皇のおくさきで 井上内親王と申されたのや そのころ、天皇のそば近くにつかえてい人がな 天皇さまに
『皇后さまを そばにおくのはよくない』となんども 申し出たのや 天皇さまもな はじめのうちは 『そんな』と思っていたけど そのうちに『そうやなあー』と思うようになられたようや。」
「それでな、子どもの 他部(おさべ)親王をつれられて この五條へながされておいでになったんやと、その途中 帯解の おじぞうさまにおまいりなされて 『安産を守らせたまえ』と おいのりなさって こられたんだと、皇后さまは、おなかが 大きかったんやそうな。」
「ふーん 赤ちゃんが おなかにいたんやな-。それで。」
「それで、五條に来てから 赤ちゃんを おうみなされたのや。皇后さまが赤ちゃんを おうみになさるときなー うちの先祖が いっしょうけんめい おたすけ申し上げたそうな、そして玉のような 男の子が 生まれられて その名を 雷神王と申されたそうや。赤ちゃんが 生まれなさるとき 産湯を たくさんわかしてなー その時 使った釜をうめたので
その土地を、釜窪(かまくぼ)と名づけたのやそうな。」
「釜窪ってなー。」
「そうや 近くにある 釜窪のことや。」
「ところがなー この土地に 四年ほどおられて 皇后さまは おなくなりになり その次の年には 他部親王もなくなれあれてなー ごいがい」(死体)を 阪合部大野の御廟山へ
お送り申し上げたそうな。-」
ジーンと 涙の出そうな お話でした。
しばらく だまっていたははは また 語りつづけてくれました。
「ちょうど 雷神王さまが 七才になられたときになー おかあさん 兄さんのことを 聞かれたそうな。雷神王さまは たいへん憤慨されて 食事もせず夜もねないで「母上の疑いがはれますように」と祈られ 雷神となって 天皇さまのいる都にあらわれたんだと それで、都はものすごい暴風雨につつまれ、雷が鳴りわたり 人々何事だろうと おそれ おののいたそうや。」
「そのうちにな 疑いがはれて天皇のおおせで この五條の地に、神殿が建てられたんだと、そして そこに み霊が 安置されて ご神号がおくられたんやって、それから その所の名を霊安寺とつけられたということや。」
まだ ねむりに入らぬ私のために 話はつづけられました。
「あ、そうそう それからな 早良親王とおしゃるかたもな、別のおとめで 淡路の国へ流されたのや お父上は 光仁天皇母上が ちがったそうや、淡路へ流される途中、食物をたべないでがんばり なくなられたそうや それで この親王さまも、五條にごいしょに まつられてあるんやで。」

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五条のむかし話」から
「荒坂の長者」
むかし、むかし、荒坂峠のあたりに、荒坂の長者と呼ばれるお金持が住んでいました。
この荒坂の長者につたわる話が二つあります。
一つめの話は、荒坂の長者のむすこのことです。
荒坂の長者に、一人のむすこがいました。そのむすこは、なまけ者で働くことがきらいなので、いつも遊んでばかり居ました。
そうしていると、長者はお金持ちなので、ほうぼうから、
「長者さん、お金貸しとくなはれ。」
「長者さん、お米貸してくれませんか。」
といって、借りに来るのです。
朝、東の方からお日様が上がって、夕方、西の方へお日様が沈むまで、おおぜいの人がやって来るのです。
むすこは、それがうるさくて、しかたがなかったのです。それでむすこは、
「何かいい方法は、あれへんかな。」
と考えました。
「あっそうや。お日様さえおれへんだらええのや。毎日、毎日、夜ばっかりやったら、こんなにたくさんの人、お金を貸りにけえへんやろ。」
と、そう考えついたのです。
そこですぐに、大きなおおきな弓と、大きな大きな矢を作りました。その弓と矢で、お日様を射おとそうとおもったのです。
つぎの朝、むすこは、大きな大きな弓と大きな大きな矢を持って山の頂上へ登りました。
一番鶏が大きな声で鳴くと、東の空にお日様が、ゆっくりと上がってきました。むすこは、そのお日様に向かって、弓を力いっぱい引きしぼり、矢をピューンと射かけました。
その矢がお日様のところにぐんぐん近づいて、もうちょとで、あたるという時、あれだけ大きかった長者のお屋敷が、ガラガラと大きな音をたてて、くずれてしまったのです。
そして、長者も、むすこも、それっきり見えなくなってしまったそうです。
二つ目の話は、荒坂の池の水が白い色をしているのは、なぜかということです。
荒坂の長者は、お金持ちなので、大きくてとてもりっぱなお屋敷に住んでいました。そして、おおぜいの人たちに食べさせるために、たくさんのごはんをたかなくてはなりませんでした。毎日、毎日、お米を洗ってできる白い水を池の中へ全部すてていたので、荒波の池の水は、最近までいつも見ても、白い色をしているということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

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「五条の昔話」から
「雨乞い」
むかし、むかし、大ひでりの年ありました。いく日たって夕立雲一つ見えず、雨はひとしずくも降りませんでした。作物はみんな枯れてまいあがりどの畑も黄色くなってしまいました。田の水はなくなり土にひびわれさえ出来はじめました。
「稲が、枯れてしまう」
「こまった。こまったものだ。」
人々は田畑をみては、なげいていました。
ことに中之郷という地は、川の水が上流で取られてしまうから全くこまりました。
その時、大善寺のお坊さんは、学問のよく出来る何事も知って居る立派な人でしたので、村人はこのお坊さんにたのんで雨ごいをしてもらうことにしました。
「このままでは、作物はみんな枯れてしまって食物はなくなってしまいます。どうか雨をふらせてください。」
「よろしい。では、みんなのためにお祈りしましょう。」
お坊さんはこころよくひきうけて、龍王様にお祈りすることにしましたが、この神様はネブカ(ネギ)とキュウリが大きらいですので、
「雨をふらせていただくのなら、みんな神様のきらいなネブカとキュウリを食べないことを約束できるか。」
と村人にいいました。
「雨が降るのだったら、どんなことでもします。」
「ネブカとキュウリは絶対たべません。」
と村人たちは、かたく、かたく、約束しました。だれもネブカとキュウリは食べませんでした。
お坊さんは龍王様に一心にお祈りしました。夜もねずに何も食べずに祈り続けました。村人もお坊さんの声にあわせて祈りました。暗やみの中にみんなの声はひびきわたりました。一週間程たったでしょいうか。六月二十八日の夜、突然大粒の雨が降り出しました。
「雨だ!雨!」
「降ってきたぞ、降ってきたぞ!」
「ありがたい。ありがたい。」
みんなは、よろこびのあまり頭も体もびっしょぬれになるのもわすれて雨の降る中をおどりまわりました。手をあわせて龍王様にお礼をいっているおばさんの姿もありました。
不思議なことに、この雨は中之郷だけ降りました。水のなかった水田はみるみるうちに水がいっぱいはって、稲は生きがえりました。
それから三日目に一度は必ず夜分に大つぶの雨が降りました。この雨のおかげで村人はたいへんすくわれました。
中之郷のみんなはその後もネブカとキュウリは食べませんでしたが、いつとはなしにネブカとキュウリは食べるようになりましたが、初生のキュウリは川へ流して龍王様におそなえすることはいまも引き続いておこなっています。最初に雨の降った六月二十八日は中之郷の祭り日として記念しいまもこの日にはお祝いしてよろこびあっています。