「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 唐招提寺のお話

唐招提寺 竜神と仏舎利、和上様のこと

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「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」。
奈良をこよなく愛した歌人・会津八一は、昭和十五年刊行の歌集「鹿鳴集」の中で、唐招提寺をこのようにうたいました。エンタシス式の列柱で有名な金堂、現存する唯一の平城宮建築である講堂、深い木々の緑と白い砂利、そして数多くの仏たち・・・。
唐招提寺を開いた鑑真和上は、唐の高僧でした。いくたび日本へ渡ろうとしては失敗し十一年、ついに日本の土を踏んだ時、辛苦のため和上の目は盲いていました。
さて、唐招提寺には、鑑真和上の持ち来たった三千粒の仏舎利(お釈迦さまお骨)がまつられています。その仏舎利も、数奇な運命をたどって日本へ渡ってきたのです。
日本へ向かう後悔中のある日、一天にわかに曇り、海が荒れ始めました。そして長さ三寸にも達する大海舵が現れて、船の中央に座する鑑真和上の手から、舎利瓶を奪い取ったのです。思託という和上の弟子が、すかさず海に飛びこみました。大海舵と格闘することしばし、ようやく思託は舎利瓶を取り戻し、船に戻ってきました。ところが海はますます激しく荒れ狂い、船は木の葉のように揺れて、再び舎利瓶は波間にのみこまれたのです。

鑑真和上は、先ほどの大海舵は竜神かその使者に違いあるまい、と考えました。それで一同に命じ、みなで竜神に向けて舎利の無事を祈ったのです。やがて波のうねりがしだいに小さくなっていき、波間にキラリと光るものが現れました。それは、舎利瓶を背にのせた黄金色の亀でした。亀は一人の老人に変身すると、和上にこう語りました。「私はむかし釈迦に教えをうけた輪蓋竜王である。そなたはこれから日本に渡り寺を創建するが、その寺の東南に竜王と白い石が現れ、舎利と寺を護るだろう」とそして舎利瓶を和上に渡し、老人は海に消え去ったのです。
唐招提寺創建の折、本当に白い石が寺の東南に現れました。鑑真和上は池をつくり、竜神をそこに祀りました。今もある鎮守社がそれで、唐招提寺が一千年以上も火事にあうことがなかったのは、この竜神のおかげだと信じられています。


鑑真和上は、天平宝字七年(763年)、76年の偉大な生涯を終えました。だがわたしたちは今でも、和上の姿を見る事が出来ます。みごとな和上像が御影堂の中に残っているからです。

和上像の製作者は忍基という弟子。和上の没する年の春、忍基は講堂の楝や梁が崩れる夢を見て、和上の死を予感し、多くの弟子をひきいてこの像を刻んだと伝えられています。
「若葉しておん眼の雫ぬぐはばや」漂泊の俳人・松尾芭蕉は、元禄元年に和上の像をこう詠んでいます。高さ81せんち、脱活乾漆造り。和上像を守り、さまざまな歴史を秘めて、唐招提寺は今日も静かです。

外部資料

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■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-1
■ ℡ 0742-43-8152

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