「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「おさきばあさんの話」

「和しが丁度、十六の頃やった。むかし五月五日、端午の節句
やったな、よい天気の日、種もみをしておったんや。女子衆と話をしもって種もみを田んぼでしとる時やった。
丹波市の方から南へ、長谷の街道を一丁の籠が急ぐようにやってきたんじゃ。誰やろなと思とる間に、後から「その籠、待て!」と、侍が二人追いかけて忌憚や。何やろと見てるとな「待て!待たんか」とえらいけんまくで叫んで来たので、籠かきは足がすくんでしもうて、そこにへたってしもうたんや。追いついた侍は、「籠の君、岡田式部、観念しろ」と言うが早いか、その籠を刀で突きさしたんや。中の人は、垂れ幕を上げて外に出ようとした時、もう一人の侍に気合もろとも首をはねられたんや、わしらはあんまりの出来ごとにびっくり、腰をぬかして物もよういわなんだ。足がガタガタふるえ、母の中に座り込んだまんま「南無阿弥陀仏 ゝ」と、唱えるばかりやったで。なんせ小娘のこと、殺されるのを目の前で見せられ、おそろしいの何のって。女子衆と抱き合うて泣くばかりやった。殺した人は矢立を取り出し、ふところの紙に何やら書いて刀に差し、死人の胸にそれを突きさした。生首は、着ていたぶっさき羽織に包んで、二人でかついでいんでしもた。籠かきも一目散に逃げてしもて、わしらと道辺に転んでいる首のない死人の体だけやった。ほんまにこおて、こおて、今でもよう忘れんのや。」と、おさきばあさんは離してくれました。


これは幕末の頃、天理市の朝和にあった出来ごとで、冷泉為恭という有名な絵師が、勤王派の誤解を受け、四十二才の若さで、おさきさんの目の前で悲惨な最期を遂げる結果となったのでした。現在無縁墓として、勾田の善福寺の境内にひっそりと石碑が立っています。

×

非ログインユーザーとして返信する