「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

自由に出掛けにくい日々が続いている方が 当店の所蔵している民話の紹介です。
「吉野の民話」から
「後醍醐天皇」
吉野には「歌書よりも軍書に悲し吉野山」(吉野の自然、桜の花の美しさをよんだ歌の本もたくさんあるけど、戦いで多くの人びとがこの吉野山で悲しい思いをした)という言葉が残されています。
源頼朝によって開かれた鎌倉幕府も百五十年たらずで幕を閉じました。その後、後醍醐天皇の「建武の新政」の時代を時代を迎えます。しかし建武の新政も長くは続かず、再び内乱の時代になりました。吉野の南朝と京都の北朝にわかれて戦いをくりかえしたので「南北朝時代」とよばれています。
京都を追われた後醍醐天皇は京都の南、笠置山へお逃げになりますが、この城も落とされてしまいました。後醍醐天皇は、夜のうち、敵にきづかれないように吉野山に逃げようとされました。しかし道に迷ってしようもなくなったとき、。三つの灯火が道の先々にともって吉野山までずっと後醍醐天皇をご案内しました。
三つの灯火は蔵王堂のあたりですうーっと消えました。灯火が後醍醐天皇を吉野山にお導きしたということで「導きの稲荷」として今もまつられています。
こうして吉野にやって来られた後醍醐天皇は、ふたたび京都へもどりたいとずっと思い続け、北朝と戦いつづけられたのでした。しかし、後醍醐天皇にも最期のときがおとずれます。後醍醐天皇は、なくなる前に、
「いつも私がお参りをしていた如意輪寺に墓をつくってほしい。墓は北向きにしてほしい」
と言い残して世を去られました。それは、後醍醐天皇の敵が北の京都にいたからです。
そういうわけで、後醍醐天皇の御陵は、如意輪寺に北向きにつくられたということです。

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