「うのん」の気象歳時記ブログ

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「吉野の民話」から
「キツツキを寺っ子と呼ぶわけ」
吉野の山ではキツツキのことを「寺っ子」」と呼んでいます。「寺っ子」というのは、お寺の子という意味です。どうして、そう呼ばれるようになったのか、こんな話が伝えられています。
今から千五百年ほど前のこと。外国から仏教の教えが伝わってきました。仏さまを信じるかどうかをめぐって、物部氏と蘇我氏が戦争をしました。戦いは、仏さまを尊敬する蘇我氏が勝ち、物部氏は滅ぼされてしまいました。
仏さまを厚く信じていた聖徳太子は、戦争のとき蘇我氏の味方になって戦いました。のちに聖徳太子は、仏教の教えを広めるために、斑鳩の法隆寺などのお寺を建てました。
物部氏との戦争がおわったあと、聖徳太子は大阪に四天王寺を建てました。大阪は今でこそ大都会ですが、そのころは寺だけがぽつんと建つ、さびしいところでした。それで寺には、キツツキがいっぱいやって来ました。キツツキはお寺の柱をっついてたくさんの穴をあけました。
人びとにはキツツキが柱をっつく音が、
「物部滅ぼした、物部滅ぼした、物部氏の魂が来ている。殺したね、殺したね、寺つつき、寺つつき。」
というように聞こえました。それから、キツツキは「寺っ子」と呼ばれるようになりました。
蘇我氏は、のちに聖徳太子の子孫を滅ぼし、ますます勢力をのばします。しかし、ついに蘇我氏も滅ぼされてしまいます。蘇我氏が滅ぼされた話は、次の「高見の入鹿(いるか)の首塚」として吉野でも語りつがれています。

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