「うのん」の気象歳時記ブログ

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「子供のための大和の伝説」から
「千両橋と千石橋」



奈良の聖武天皇の御陵前の、佐保川にかけた橋を法蓮橋といいますが 別名を千両橋ともいいます。
元来 この御陵の東側は多聞町で、ここは奈良奉行所に勤めた与力たちの住宅地ばかりでした。
奈良奉行所は幕府の役所で、奈良女子大学の所にありましたので、与力はここに勤めて、多聞町の居宅へは法蓮橋を渡って帰るのでした。何にせよ、飛ぶ鳥も落とすお役所の人たちで、その収入のお金もめざましく、日に千両の金がこの橋を渡って居宅へ運ばれたといって、千両橋と名づけられました。


吉野川をはさんで、南に下市町、北に大淀町があり、その間をつなぐ橋を千石橋といいます。
むかし、楠 正行が、最後に吉野の宮に参上する時、一族郎党はわずか百四十余騎にすぎませんでしたが、正行は知恵者でしたから、敵の隠密の眼をあざむくために、付近の民家から、古わらじを千足集めさせて、橋の上にならべ、将士がみなそのところで、わらじをはきかえたようによそおいました。
それまでは、この橋を檜橋といってましたが、それからは千足橋というようになりました。
その後、戦国時代のころ、織田信長の命によって、筒井伊賀守が吉野郡の土地を取りにきました。
吉野方の大将堀小次郎は、家老広橋矢五郎・矢三郎の兄弟をひきいて防ぎましたが、小次郎は今の烏尾の「小次郎松」のところで討死し、広橋兄弟は筒井氏に降参し、吉野八郷はついに千石の米をお納めすることを約束し、豊臣氏の時までこれがつづきました。
この米を渡すことによって、センゾク橋は、千石渡台の橋といわれ、ついにセンゴク橋というようになりますた。

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