「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」
狐塚

外部資料

豊田の東に狐塚という古墳があります。
むかし、開墾の目的でこの狐塚を掘り崩した人がいたそうです。塚を掘り崩していくと、中から箕に二杯分ほどの立派な宝物が出てきたので、その人はホクホク顔でその宝物を家の中にしまいこんでしまいました。
ところが、その夜のことです。荒々しく家の戸をたたいく者がありました。
「おやっ、こんな時刻に誰だろう。」と思って出てみると、表には誰もいませんでした。戸をしめて家に入ると、また戸がたたかれ、もう一度出てみると誰もいない。いくどもいくどもこのようなことが続いて、とうとうその人は、首が曲がって動かなくなってしまいました。
これは狐塚にいる古狐のしわざに違いないと思って、よく朝さっそく塚から出てきた宝物を狐塚へ元通りに埋めかえしました。すると、やがて首はもとにもどり、元気になったそうです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」
柳本と善無毘三歳

外部資料
奈良に都のあったころ、天正天皇をたずねてインドから「善無毘三歳」という高僧が興福寺へ来られました。
大和巡歴の途中、たまたま今の柳本へ来て、小川のほとりにある一本の大きな柳の木を見て非常に驚かれました。そして、感じるところがあって、この地こそ仏の聖地であるとして寺を建てられ、附近を楊本と名づけられました。これが楊本の地名の起こりであって、柳本と書くようになったのはずっと後の事です。
「善無良三蔵」の創建と伝えられる五智堂は、傘の形をしていて、支柱を除けば四方吹放しとなるところから、俗に「傘堂」とも呼ばれている珍しい堂で、鎌倉中期の建物と考えられ、国の重要文化財になっています。又、五智堂は、支柱の上方の四面に額を覆い五智如来の梵字(サンスクリット)を刻んであって、どこから見ても正面に当るので、真面堂と呼ばれています。また、形が小さいというので、豆堂とも呼ばれています。


本のある喫茶店 うのん HP です

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」
柳の地蔵(守目堂町) 雨乞いの話です
布留川の本流より分れて西に流れる田村川の水は、水晶のように澄みきって、本当にきれいな水だったので、村の人達は、田の水として利用するだけでなく、この水を飲み水にしていました。
この川の中程に、大きな石橋が架けててあり、こんにゃくの形に似ているので、「こんにゃく橋」と喚ばれていました。
この橋のほとりに、大きな柳の木が一本あり、その傍に余り大きくないが、頑丈そうな祠が建っていました。その中には、五尺余りの木彫りのお地蔵さんがまつられていて、紅や青の色で塗られ、見るからに美しく、村の人達に「柳の地蔵さん」と呼ばれていました。
川のそばに立っておられるこのお地蔵さんは、水を司る神様、雨乞いの神様として皆に親しまれ、「きっと雨を降らせてくださる。」と伝えられ、村の人達の心の支えもありました。
ある夜、春雨に煙る中、村人の一人がここを通ると、柳の木の影に、淋しそうな若い女の人がたたずんでいました。「おやっ、どうしたのかな」と思って、声をかけようと近よると、女の人は、霧のようにすっと消えたかと思うと、祠の中のお地蔵さんが、「あはははは、あははは」と笑いました。
そんなことがあってから、何日かたったある寒い夜の「ことです。一人の旅人が、ここを通りかかると、お坊様が一人、祠の前でしきりに念仏をとなえておられました。旅人も一緒に拝むつもりでそばに行くと、お坊様は、キッとした顔を向けたかと思うとたちまち大入道のようになり、長い舌をペロリと出して、旅人をにらみつけたのです。旅人が「キャッー」と大声をあげて逃げ出したところ、「あっはっはっはっ、あっはっはっはっ」と祠の中から、笑い声が追いかけるよぷに聞こえてきました。
その話を聞いた村の人達は、「まさかお地蔵様が笑うわけがない。きっと狐か狸の仕業だろう。」と言いっつもその噂はひろがっていきました。村人達はうす気味悪くなり、大柳の祠には、誰も近寄らなくなってしまいました。
それから何年たったのでしょう。さしもの柳も、長い歳月や風雨に枯れ果て、祠もすっかり荒れてしまいました。村の人達は、見る影もない祠を見て心配しました。「中のお地蔵様が、朽ちてしまってはもったいない。これは、勾田村の浄国寺にお預けするのが一番じゃ」ということになり、預けることになりました。いつしか、預けたお地蔵さんのことは、忘れられようとしてました。
そして、昭和に入ってからのことです。村は二度も大干ばつに会いました。どうしたことか、くる日もくる日も一滴の雨も降らず、田は真白に乾き、ひび割れて、稲はもう枯れる寸前になって、しおれてしまいました。
村の人達は、毎日店を仰いでは雨を望み、神に祈っていmなしたが、かんかん照りの太陽は、雨を寄せ付けません。
その時、浄国寺に預けた「柳の地蔵さん」のことを聞き伝えてきた老人が、そのことを、村の人達に話しました。村の人達は、藁にもすがる思いで浄国寺へ行き、このお地蔵さんにお願いすることにしました。
まず、地蔵さんに水が浸まないよぷに、雨合羽で幾重にも包み、和尚さんが地蔵さんを背負い、村中が総出で松明をかざしてねり歩きながら、「雨たんもれ、雨たんもれ、天に知る気はないかいな。」と大声で、地蔵さんを池へ投げこいだり差上げたりしながら「雨を降らせたまえ、雨をふらせたまえ・・・・・・・・。」と祈りました。
さしものかんかん照りも、村人んぽ熱意が天に届いたのか、にわかに空が曇り、大雨が降りはじめました。村中の人達は、大喜びをし、それぞれのpおきゃくさんや、家でお祝いをしたそうです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」

外部資料 専行院


福地堂の地名
天理市長柄町の北東に、むかし臨済宗の大きな寺がありました。三層の塔や、多数の寺院が建ち、その中に福智堂というお堂がありました。
しかし、大きな寺も、いつの頃からか廃れてしまい、一院は、柳本に移して専行院となり、もう一院は、丹波市の勾田に移して浄国寺と名づけられました。
福智堂だけが、淋しく残っていましたが、天正十四年、十市城が落ちた時、兵火に焼かれてしまい、寺も堂もすっかり灰になってしまいました。焼け落ちた瓦は、岳になるほどで、大塚池の北方にあった小丘は、寺の瓦が埋れて出来たといわれていました。太平洋戦争の時、飛行機の道路づくりで掘りくずされ、その時、大量の寺の瓦が出土したということです。
福智堂の地名は、その寺の名残りで、集落には、今も塔の東、東の寺,寺の西という小字が残り、大きな寺だった頃が、しにばれます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」
泥かけ地蔵

八軒屋の北側にある、槌屋の地蔵さんのことです。瓦ぶきの立派な祠の中にある、かなり大きなお地蔵さんです。かなり大きなお地蔵さんです。祠の中には、古びたわらじが掛かっています。
昔は、布留川北流の川添にあったものが、川に流されていたのを拾ったのだといわれています。
地蔵さんの、自分の体に痛みのあるところと同じ所に、拳ほどの泥をつけて祈願するので、通称「泥かけ地蔵さん」と呼ばれています。
少しぐらいの病では、医者にかかることなどできなかった頃も人々は、すがる思いで祈ったのでしょうか。
ある時、一人のおばあさんが、「泥をかけては、かわいそうだ。痛いところは、さするようにしたらいい。」
と言いながら、泥を洗い流してしまったそうです。村人たちは、たいへん驚きました。
その時、洗ったのと同時に建てたといわれる石碑には、「昭和27年5月」と刻まれています。
その後、地蔵さんに泥をかける人もなく、今では汚れのないきれいなままの姿で、静かに見守っておられます。
毎年、7月24日には、村の婦人により、団子をお供えしてお祭りをし、村の守神として、今も大切にしています。