「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

薬師寺周辺 天武神社

写真は古くいものです。
七条大池(勝間田池)南側に天武神社はあります。大池から細い道を南に徒歩2~3分ほど歩いた所に 木の生い茂った中にこじんまりと 手入れされたことが伺える天武神社はあります。天武天皇は薬師寺の発願されましたが 完成を待たず なくなられました。 そこで薬師寺から小高い丘のこの場所で 天武天皇をお祀りされているのではないでしょうか。それをその地の住人方々が守り 祀りつがれてきたのではないでしょうか。

以前のお正月 2年前程です

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「当麻の来迎の松」

当麻寺の仁王門をはいって行きますと、中の坊の前に一本の来迎の松という松の木がありました。
いまは枯れてしまっていますが、その株は小屋を作って保存してあります。
中将姫がおなくなりになる時には、紫の雲がアイタイとしてこの松にかかって、仏さまのお迎えがあったので、この松を来迎の松というのだと伝えています。
また、この松は中将姫が奈良から当麻寺へ来られた時に、記念にと、たもとへ入れて来て、お植えになった松だともいいます。
俳人、松尾芭蕉が、貞享元年にこの寺へお詣りして、この来週の松を見て、
 僧朝顔、いく死かへる 法の松
という俳句を作りました。その前書きに
 「当麻寺へ詣って庭の松を見ると、およそ千年もたったと思われる、大きな牛でもたったと思われる。大きな牛でもかくせるほどの大きさである。この松は人間のような生きものではないが、仏の縁にひかれて、切られることをまぬがれたので、幸いにこんな大きくなったのだろう。尊いというような意味のことを書いています。この仏の縁といったのは、中将姫がなくなられる時に、仏さまが、ご来迎になったという松は、何百年も枯れないで、このくらい大きくなっている。尊いことである。」というようなことです。
芭蕉がこの寺へ来た時にはまだ盛んであった松の木も、その後、枯れてしまって、中の坊の中にある松を第二世としていたので、昭和9年には、その松の木の所へ前の句を刻んだ句句碑を建てられましたが、今はその松の木も枯れてしまいました。それで、この法の松も、やはり死ぬ時があるのです。しかし俳句のような文学や、伝説などは、松よりも長く世に残るものです。
9月21日の当麻寺です

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

また薬師寺 西ノ京にちなんだブログです
薬師寺の南東角に 「竜王社」があります。
江戸時代後期に 通称七条大池 「勝間田池」が災害に遭い それまで池東北の角辺りの小高い場所に竜の祠があってそれが流されました。そこで 竜を薬師寺にお祀りするようになりました。毎年七月二十六日には 五条 六条 七条 九条 郡山市 大池の水を灌漑用水としている農家があつまり竜王祀りをしています。
下記の写真は古いものです。

薬師寺と大池 の深い繋がりをあらわす一つです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「大和の江戸」

♩♩♩ 下田よいとこ
    大和の江戸や・・・♩♩♩
という唄がありますが、明治になる少し前に「権の守」という者が、「さすがに、下田は大和の江戸や」と感心した話があります。
そのころ、権の守と名乗る者が、大坂方面から関屋まできて
「十津川まで行くから、関屋から高田まで送り迎えの人足をよこせ」
と下田村へいってきました。
当時、下田は郡山藩の下でありましたが、郡山藩から「権の守」については、何の通知もないのでいくら催促してきても、人足をだしませんでした。そこで、権の守の方はそびれを切らして、ひとりで下田へのりこんできて、かま屋という道者宿に宿りこんで、えらい勢いでかけ合ってきました。
人足を出せ、出さぬと押し問答すること数日、下田では困って郡山藩へ、どうしたものかとうったえて出ました。すると郡山から足軽の鉄砲組をよこしてくれました。
鉄砲組がかま屋へ乗りこんで行きますと、権の守は白装束に向こうはちまきで太刀をつかんで奥から出てきました。ここぞと鉄砲組では豆鉄砲をうったので、顔へあたりました。権の守はびっくりしておとなしくなり、ついにつかまったといいます。
ひかれて行く時、権の守は、
「下田の村役はなかなかしっかりしている。だまされんよらん。さすがに下田は大和の江戸や」
といったといいます。権の守といったのは、実は十津川の男で、京都で医術を習って故郷へ帰る途中であったということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

コロナウイルス感染予防の自粛生活 その予防しながら社会生活が活発になってきて奈良西ノ京周辺にも人が来ていらしゃいますので この辺りをまたブログにしたいとおもいます。
まずは 奈良の観光パンフレットにもよく見る有名な風景から ここに来られる人はイベントの時以外は少なく ゆっくり風景に浸っていただけます。


「勝間田の 池はわれ知る 蓮無し 然言ふ君が 髭無き如し  
                  婦人  万葉集 巻十六 三八三五
いまの西ノ京の唐招提寺は万葉の最後の天平宝字三年(759)の建立で、寺地は右京五条二坊にあたり、もと天武皇子の新田部皇子(にいたべのみこ)の旧邸であった。皇子は天平七年(735)になくなっているからこれはそれ以前の歌である。皇子が勝間田の池の風趣に感動して、ある婦人に「水影濤々として蓮花灼々たり。可怜断腸、言うことを得べかたず。」
と絶賛したところ、その婦人がこの戯歌を作って吟詠したものという。あまりに手ばなしで絶賛するもので婦人(寵愛の人であろう)が逆に戯れて皮肉ったものであろう。皇子は事実ひげが深ったとも、あるいは無かったともいわれ、また蓮はたとえで、二人の愛情の問題だともいわれる。
その勝間田の池は邸宅からそう遠くないところにあったものであろうが、こんにちどこともわからない。薬師寺では寺の西方の通称七条大池をその池として伝えてきている。薬師寺の前から西に大池がある。池の西側からはすでに当時から建っていた 薬師寺 東塔 西塔 も影をうつし、金堂 東大寺大仏殿 遠くに春日山 高円山  菅原の里とはうってかわった西ノ京の閑雅な風趣が感じられ、このような池ででもあったと思われる。
若草山 高円山