「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

三松寺
一昨日紹介いたしました 天武神社から 南へ徒歩2分ぐらいの所に 三松寺はあります。

県下で一番整った禅道場を持つ三松寺には我々人並みのつややかな話がある。
三松寺東側に大きな地蔵がお立ちです。この大きな地蔵様が 艶地蔵といいます。


宝暦三年 大和郡山城の城代家老 松下将藍が 江戸で妾婦お艶を囲う。
大和郡山への帰省に際し箱根の関所守の許しを得られないので芦ノ湖に入水して白蛇となり、毎夜家老を苦しめた。
これを見た正妻が三松寺の住職の導きにより地蔵を一彫一拝して地蔵尊を作った。その名をお艶地蔵と称し、邪気を解きたるをもって、「縁切り地蔵」といわれ庶民の信仰となる。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「染井戸と糸かけ桜」

当麻町染野の石光寺に染井戸という井戸があります。
中将姫が当麻寺で蓮糸で曼荼羅を織られた時に、ここへ新しい井戸を掘り、蓮糸を五色に染められたのだといいます。それでこの井戸を染井戸といい、この石光寺を染寺ともいいます。そして柿の名も染野(しの)といいます。染野といてシメと読むのはおかしいと思って調べてみますと、ここはもと禁野(しめ)といって、七五三なわを張って神をまつった所ですから、もとは禁野とかいたのですが、中将姫の伝説が生まれてから、禁野は染野のことだろうと思ってまちがったか、そこはよくわかりませんが、いつのころからか染野と書くようになりました。しかしよび方はむかし通りシメとよんでいるので、大へんややこしいことです。
この染野の石光寺の境内に糸かけ桜という桜が一本あります。
むかし、役小角が一本の桜をここへ植え、仏法の盛衰はこの桜の栄枯によって判断されるといわれました。ところがこの桜は年々繁茂して、花が咲いていたので、不朽の桜といわれています。
その後、当麻寺にこられた中将姫が蓮糸曼荼羅を織られた時、菩薩の化身がこの染の井で糸を染め、この桜にかけてほされましたので、それから糸かけ桜と改められたといいます。
また、染野の桜ともいいます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

野々宮天神社

大池北側に「野々宮天神社」が鎮座しています。ここは以前もブログしました。
相撲の祖 垂仁天皇に埴輪を提案し 埴輪作りを最初にし 菅原道真の先祖といわれる 野見宿禰(のみのすくね)と菅原道真が祀られています。 それは神社に掲げられている「額」に表れています。ここから西に 埴輪作りから生まれた 赤膚焼きの窯元があります。

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「子供のための大和伝説」から
「蓮糸まんだらと当麻れんぞ」

いまの当麻寺一山の本堂を俗に曼荼羅堂といいます。
むかし、中将姫は雲雀山から奈良へ帰られましたが、発心して十九歳の時に当麻寺へ来て弟子入りを願い、名を中将法如尼と改め、一心に修業されました。二十六歳の時、
「世にはほんとうの仏があるならば、この眼前に現われ給え、われ現身の仏を見なければ、この座を立たない」
と、三十七日の願を立てて念仏三昧に入られました。(これは一生けんめいに念仏を申されたということです。)
そうすると、満願の、暁に、ひとりの老尼が現われて、
「われは長谷観音の化身である。生身の仏を拝みたければ、わたしのいうとおりにせよ」
といって、百駄の蓮の茎の糸をとってまんだらを織ることを命じられました。
中将法如尼は時の帝に願いを上げて、近江・大和・河内から百駄の蓮茎を集められました。そしていよいよ蓮茎から糸をとることになると、どこからか前の老尼に手伝われながら織ることになりました。三把の藁に三升(六リットル)の油を注いで灯として、一節竹を軸にして縦笛ともに一丈五尺(四・五メートル)の曼荼羅を織りあげました。
老尼は織り終わると、いなくなったといいます。
織りあげた曼荼羅を本堂にかけて、懸命にいのっておられると、生身の阿弥陀如来と二十五菩薩のお迎えを受けて、中将法如尼は生きながら西方浄土へ旅立たれたといいます。
その有様を再現する会式が毎年五月十四日に行なわれる当麻れんぞで、中将姫が娑婆堂から曼荼羅堂、すなわち極楽の浄土へつれてゆかれる有様を人々に見せてくれるのがあの練供養というものです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

薬師寺周辺 天武神社

写真は古くいものです。
七条大池(勝間田池)南側に天武神社はあります。大池から細い道を南に徒歩2~3分ほど歩いた所に 木の生い茂った中にこじんまりと 手入れされたことが伺える天武神社はあります。天武天皇は薬師寺の発願されましたが 完成を待たず なくなられました。 そこで薬師寺から小高い丘のこの場所で 天武天皇をお祀りされているのではないでしょうか。それをその地の住人方々が守り 祀りつがれてきたのではないでしょうか。

以前のお正月 2年前程です