「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「狐井と板仏の祭」(きつねいといたぼとけのまつり)

北葛城郡香芝町に狐井という村があります。この村は全般に水が悪かったが、むかし、お宮のほとりに一匹の狐が住んでいて、いつのまにか、この狐の穴から清水がこんこんとわき出してきました。
今もお宮の隅に、この「狐の井戸」があって、清水がわいており、近所の人はこの水を使っています。
狐井という村の名も、この井戸から起こった名です。この狐井の赤土家の庭に、美しい竹が茂っていますが、これはその先祖の方が立てかけておかれた竹の杖が、一夜にして葉が出て根がのびて、竹になったといいます。また狐井のお宮さんは、元はこの赤土家の屋敷の守り神であったといい、この一夜竹の下に大きな石があって、この石の上にまつっていたといわれ、今でもこの石に腰かけたり、よその人がこの竹を切ると腹痛を起こすそうです。



香芝町良福寺の方から流れてきて、狐井の東側を流れている小川を津川といいますが、むかし、あるお婆さんがこの川でせんたくをしていると、池のいで板に描かれた仏さまが流れてきました。たいそうありがたい仏様であったので、狐井の「ドヤマ」の下にまっつたのが七月九日でした。それで、この日は板仏の祭りといい、必ず少しでも雨が降るといわれています。
この板仏は、今はこの村の福応寺にまつられています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「金の茶臼」

宇陀の榛原市からバスで東南へ4㌔、高井から左の方、室生へ通じる山道を1㌔ほどゆくと、赤埴の仏隆寺という古いお寺があります。
室生寺の南門といわれてきたお寺で、ここの宝物として金の茶臼というのがあります。
側面に動物のキリンを彫刻した石の茶臼で、金で破損したところを修理してあり、目方は二十五㌔ほどのものです。
この金の茶臼は、むかし、弘法大師が唐から帰朝されたときに、唐の徳宋皇帝から茶の実といしょにいただいて、持って帰られたものだと伝えています。当時、茶の実も大師手づから寺内にまき付け「こけの国」という茶園になっていたといわれ、いまもこのお寺の付近の山や野には、自生の茶が多いということです。
さて、この茶臼は寛文年間宇陀の松山城主・織田長頼が別荘を建て。茶の湯の会をそたとき、寺から借り受けましたが、鹿のような獣が出て鳴きさわぎ、室の内外をかけ回って器物をこわします。よく調べてみると、茶臼二兆国されたキリンのしわざとわかりました。
それで城主の長頼は大へん立腹して、臼を庭石に投げつけた上、ようやく仏隆寺へかえさせました。金で修理されたきずは、この時のものだといいます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「大野寺の身代り焼地蔵」

近鉄の室生駅を下車すると、南方に彌勒の大石仏のほられてある屏風岩が見えます。
その対岸が大野寺で、ここの堂に身代り焼地蔵さんがまつられてあって、こんな伝説があります。
むかし、大野の郷土という村のさむらい、杉山平左衛門の侍女に、小浪という気だてのやさしい女の人がありますた。いつもこのお地蔵さんを信仰していましたが、ある時、杉山の家が火事で全焼し、それが小浪のしわざであるというけんぎがかかり、小浪は火あぶりの刑に処せられることになりました。
刑場にのぞんだ小浪は一心に地蔵さんを念じて 手を合わせていました。やがて炎々ともえ上がる猛火につつまれ、たちまち、クワッと光が放ったかと思うと、小浪のからだは一変わして、お地蔵さんの姿となりました。それと同時に、はらうか向こうの石の上に、手をあ合わせた小浪の姿が現れました。人々はこのふしぎなできごとにおどろきました。
小浪はその日から頭をまるめて妙悦(みょうえつ)という尼さんになり、一生を感謝念仏に送ったということです。


今もこの小浪がいた悦庵のあとが、この近所に7あるといいます。
また地蔵さんは、その時身代わりになれたので、すこし焼けていられるということです。弘法大師の作られたという立派な仏さんです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

奈良県の民話
「塗りつぶしの絵馬」桜井市
長谷寺というたら ボタンの名所や、大和の人なら、だれも知っている観音さんのお寺や。
わらしべ長者の若者も、願をかけたという、ありがたい観音さにゃ。
ありがたい観音さんやったら、みんなはいろいろなものを、おそなえしよる。
いまから、二百年もまえのことや。
奈良の町のぐふく屋が、えらいでかい絵馬を、かついできよったのや。
「石段をかついであがるだけで、あせだらけになってしもうた。」
でっちたちが、ぼやくくらい、おもたい絵馬やった。
それでも絵馬には、みごとな絵がかかれておった。京の五条の橋の上で、牛若丸と弁慶が、ちゃんちゃんばらばらをしとるところや。
唱歌でいうたら
  こことおもえば またあちら


という場面や。
「ほう、なかなかのもんや。これは、長谷寺の名物になりますわい。」
ぼんさんも 大よろこびやった。
ぼんさんのいうたことは、まちがいやなかった。
「長谷寺の絵馬を、見にいこうか」
大和の人やらは、それだけで、長谷寺へおまいりするものが、ふえたくらいや。
「ほんまに、生きてるみたいですなあ。」
みんなは、かんしんして、おさいせんも、ふんぱつしてかえる。ーーいうあんばいやった。
ところが、ある夏のはじめの晩やった。
ぼんさんがねておったら、夜中にお堂のほうで、
「ええい、やあ。」
という声がきこえるのや。


「どこのあほやろ。いまごろ、ちゃんばらをしとる。」
はじめの晩は、そのままにしいたら、なんと、つぎの晩も、またそのつぎの晩も、まい晩、まい晩、つづくやないか。
それには、ぼんさんも、はらをたてよた。
「よし。いって、とっちめたろうかいな。」
ある晩、そっとぬけだして、お堂の石段をのぼっていきよった。ながい石段をのぼるとき、ボタンの花のにおいが、ええにおいでしたのを、おぼえている。
そして、お堂のちかくまでいって、そっとのぞいいて、ぼんさんは、ひっくりかえるくらいびっくりしよった。お堂では、絵馬から抜けだした牛若丸と弁慶とが、ほんまに刀やら、なぐなたやら、ふりまわして、ちゃんばらをしとるのや。
「こら、あかん。」
ぼんさんは、あきれて、石段をかけおりてきよった。
「絵馬の絵も、あんまりじょうずなのは、かんがえもんや。」
そこでぼんさんは、さそっく小僧たちにいいつけて、すみで、まっ黒にぬりつぶしてしまいよったのや。
「これなら、もう、ぬけだすことはできんやろう」
そのとおりやった。ぬりつぶした絵馬からは、牛若丸も、弁慶も、ぬけださんようになって、しずかな晩がつづいたさかい、ぼんさんは、まくらをたこうして、
「よう、ねむれるわい。」
しばらくは、ええちょうしやった。
ところが、雨やら、風やらにうたれたら、絵馬のすみも、はげおちてくる。はげおちてきたら、どうや。またまた、ちゃんばらをはじめだすやないか。
「おら、かなわん。」
そこで、はげおち、はげおちては、またぬる、ということを、くりかえしとったが、
「それなら、日をきめて、まい年 ぬりかえたほうがええ。」
ということになって、いまでも、まい年、ボタンの花がさくころには、すみで、ぬりつぶすという話や。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「ごんじゃの穴と五八寸」

宇陀郡室生村大字小原の仏ガ谷に、ごんじゃの穴という所があります。直径1メートルぐらいの奥深い洞穴で、大蛇がすんでいた所といわれています。
ある時、村の人が川辺に下りて、この穴の付近でグミを取って食べていますと、足もとに大きな松の木が横たわっていたので、その人はこれに登ってグミを取ると、にわかに登っている松の木が動き出しました。村人はびっくりして、よく見ると、これは松ではなくて、大蛇でした。そして、その大蛇はそこの洞穴へ入っていってしまいました。それからこの穴を「ごんの蛇の穴」といい、その土地の名も、「ごんじゃ」と称するようになりました。
今でもこの辺に五八寸という蛇がいるということです。太さ五寸(十五センチ)長さ八寸(二十四センチ)の大蛇で、山の上からころがってくることがあり、これを見たものは大ていびっくりして病気になるということです。この五八寸は上笠間にもいるといいます。