うのんのブログ

奈良西の京薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№97100

密柑で占う天気
戦後間もなくのこ 宇㚙志の方では若水を汲むとき密柑を入れてその都市の天気を占っていると教えられました。半信半疑で奈良県史民俗編と民俗地図に若水迎えのことが記載されていて 若水を迎える場所は井戸・天水・川・神社内容については五項目に別けて記述があります。県史をみると各個について述べられています。少し長くなりますがそのまま書き写します。奈良県史12民俗上暮らしのリズムより。宇陀郡菟田野町では若水を行なうところが減って昔していたというのが多い。現在も若水をしている稲戸や平井も簡略になったが 佐倉では いつもの井戸へ正月の早朝に男が行き新しい杓でバケツ(昔は新しい手サゲオケ)に三回 若水を汲む。そのときに一回汲むごとに「アラタマノトシノハジメニシャクトリテヨロズノタカラクムゾウレシキ」と唱え密柑を浮かす。大神では家のアトトリの男子が自分の井戸へ行き バケツに水をくむ。唱えることは佐倉と同じで やはり 密柑を浮かすが そのとき一年のお天気を占う。密柑が上を向くと「晴」ヘタが上になると「雨多し」など平井でも同じように元旦の午前2時kぁら3時ごろに新しい杓で 平年は十二杯閏年は十三杯汲む。


 杓外部資料

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№99 天気を占う

若水迎え
新年には若水迎え 最近はあらたまって若水を汲む風習がなくなってきています。町屋では早くからなくなっていました。一方従前は浄域を示す しめ縄を張った農村の井戸屋形で厳かに若水を迎えるという行儀がありました。このことは今は 昔し語りになりつつあります。
ここでは若干横道にそれますが 「奈良県民俗地図」について触れておきます。「奈良県民俗地図」は本県で生活を営んできた多くの人々の心意を伝える有形・無形の貴重な民俗文化も 伝えられる基盤となった村の生活模様の変質に伴い今のうちに記録にとどめておこうと 住 食 衣 生産 運輸交易 社会生活 信仰 人の一生 年中行事 宗派別院に至るまで僅かであるが この方面に興味のある方は眺めているだけでもたのしく とまた年配の方はウンウンとうなずくことの多い資料とおもいます。この資料は序文には1400余りあった藩政府のうち153地区を対象としたにすぎずと書かれ 例言には時代を大正年間にしぼりまとめたとありまsづ。従ってある事象を追認するには昭和の初め すでに或程度成人に達した人はよくご存じと思われます。
前期の報告書中に奈良石木(砂茶屋から富雄川に沿って少し下がったところ)では若水を汲むとき唱うえごとをした。とありこの地方で苺作り」に取り組まれ登彌神社氏子総代もおつとめの出原老に伺いすると 膝を乗り出して仰言るには「ワシの若い頃は親父が唱えごとをし若水を汲んでいました。 ワシの代になってからは唱えごとはやらなくなったが元旦の朝は当主のワシが若水を汲んでいた。戦後しばらくして水道が普及すると井戸水は汚い と子供に嫌われそれ以降水道水の若水で現在に至っている」と話されていました。
外部資料


薬師寺近くから 大和の気象歳時記No.98

分水の方法
 十津川上流では猿谷地点で堰き止めました。加えて川原桶川の川原桶地点で また池津川で双方共川原桶川の川水として流れる水を(十津川村を経て太平洋に流れる)堰き止め僅かではあるが キリキ谷の水も併せ隧道で猿谷貯水池に導入しました。猿谷貯で大和平野に分水しました。吉野川側にとって減量された水池の流れを補う為に猿谷貯水池で貯留された水を西吉野第一、第二発電所で発電機を回転させたあとは直接灌漑用水として紀伊平野に送っています。慣行水利枚が解決した訳です。県内に降った雨が流域を変更して大和平野を潤し始めました。取水と分水には条件が付加されていますがここに至る迄 古くは元禄の昔から 戦後も十数年を経てようやく吉野川の「水」が大和平野を流れています。


大迫ダム

下渕頭首工