うのんのブログ

奈良西の京薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くから 大和の気象歳時記

水田について 「延喜式」の大抜詞では 畔放 溝埋 樋放 を天津罪の筆頭にあげています。 水田破壊は 社会犯罪の最たるものとされたわけで 高天原説話においても スサノオノミコトはこれを犯したために 手足の爪を抜かれた上で 国外追放となっています。
稲作と梅雨
イネはもともと熱帯産の水草であるから 多量の水と高温を必要とします。 特に育ち始めの枝分れの時期には多量の水が必要です。この時期に水が不足すると 枝分れが少ないまま育ち出穂しても収量は非常に少なくなります。
 水田いっぱいに張られた水の中で 十分に枝分かれすると あとは田が乾き上がらない程度に湿ってさえいれば 次に必要なものは強烈な日照と高温です。
これですくすくと伸び 開花期に大風で花粉が失われることさえなければ 秋には重く穂が垂れます。

薬師寺近くから 大和の気象歳時記

外部資料

水稲栽培
大陸の稲作民が日本に移住して来た時 彼らは同時にトータルシステムの一環として 五穀も持ってきたと考えられます。純粋に稲作だけという農耕はなく またイネだけでなく 五穀もこの国土で自生した形跡は全く見られません。
 
 しかし この国土に定着した農耕の主力は やはり初めから水稲であったと思われます。「田」という字は漢語では本来陸田を意味し 水田に対しては特に「水田」と言わなければならず 朝鮮においてもそうであって 「水田」に対しては特に「水が冠で下が田」(パソコンで出こない字 朝鮮の字です)という朝鮮字をつくっているのに対して 日本においては「田」は初めから水田を意味し 陸田を表すためには 「畠 (白 田)」あるいは「畑( 火 田)という国字を新造しなければ ならなかったことからも それがうかがえます。

薬師寺近くから 大和の気象歳時記

弥生時代
同じものが続きますが 本文との関係があるところを大きくしました。

弥生時代は 水耕耕作が西から東へ さらに東から北へ向かって広がった時代です。稲作 特に水稲耕作の展開は その後の二千年間の日本の文化を決定しました。今日我々が日本文化と呼ぶものは 第一次生産様式から始まって 文学 宗教 芸術」に至るまで さらには日本人のもつ意識構造や情緒をも含めて そのことごとくが水稲耕作を基盤として成立しているといっても過言ではありません。