「うのん」の気象歳時記ブログ

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「子供のための大和伝説」から
「腰抜田」

吉野郡十津川村五百瀬(いもせ)は、五百瀬の荘司の宅があった跡と伝えられていますが、この田を一名腰抜田ともいわれています。
元弘元年十月、護良親王が熊野へ落ちて行かれる時、従者数人を従え、芋瀬の庄司が守っている関所をすぎようとされましたところ、荘司はこれをことわり、
「親王のにしきの旗(みはた)が、近臣の首をわたしてください」
といいましたので、やむなく、錦の旗を与えて、あぶない所をのがれられました。
一行からおくれてこの関所にさしかかった、村上義光は、荘司の家に護良親王の旗がかかげられているのを見て、大いに怒り、関所の役人を前の田の中へ投げ飛ばして、旗をとりかえました。
役人どもは腰の骨が抜けて、立つことができませんでした。
それで、その田を腰抜田と名づけました。
神納川原の三反三畝(33アール)ほどの田ですが、明治22年の水害で、埋まったともいいます。
平維盛(たいらこれもり)の子孫だという小松氏の話を聞くと、五百瀬の荘司は小松の養い子で過去帳にも名前がのっており、墓地も一段と下がった所にありますが、小松の先祖には入れてないということです。

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