「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」
「転害門(てんがいもん)」

東大寺の西北の大門を転害門といいます。テンガイ門を音便(おんびん)でテガイ門といいならわしています。それで手貝門(てがいもん)とも書きました。今、この辺の町を手貝町というのはこの門からきているのです。
奈良市立鼓阪(つざか)小学校はこの門の所から入ってゆくので、この小学校の門のようにも見えますが、実は東大寺が奈良朝時代に創建された時に建てられたもので、立派な雄大な古い、国宝の八脚門(はっきゃくもん)であります。
東大寺創建の時、九州から宇佐の八幡さんが東大寺へ迎えられた時、八幡大神はこの門から入られて、みちみち殺生を禁断されたので、転害門と名づけられたといい伝えがあります。毎年、手向八幡宮のお祭が十月五日にこの門まで渡御(とぎょ)して行われ、転害会といいますので、それに関連した伝説なのでしょう。
また、大仏さんができて、その開眼の導師といて、天竺の国から菩提僧正が招かれてきた時、お待ちしていたわが国の行基僧正が早く早くと、この門の所で手招きされたので、手掻門(てがいもん)という、というのも一つの伝説です。
また、この門を景清門(かげきよもん)ともいわれているのですが、それにはこんな伝説があります。
源平の戦のころ、東大寺は大部分兵火で焼けましたが、この転害門は残りました。鎌倉時代の大仏再建の際、大いに力をつくした将軍源頼朝が建久六年の大仏供養の時に奈良へやってくることになりました。その時、平家の勇士、悪七兵衛景清(あくしちひょうえかげきよ)が、頼朝を暗殺して恨みを晴らそうと思い、坊さんの姿に化けてこの門にかくれていました。しかし警固(けいご)の武士に見つけられて捕えられました。それから、この門を景清門というようになったのだといいます。

×

非ログインユーザーとして返信する