「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「神野の民話」から
大字 勝原
勝原の里は初め豊原七つの村の基であった。
第十五代天皇応神天皇の御代(みよ)270年頃、勝の宿祢(すくね)という人が初めて土地を開き、溝、池、道を整備して人々は農業を中心に生計を力てるようになった。
この地で思兼(おもいかね)の神がはじめて八たの御鏡を作り、青白の御幣をかけて処鏡御殿の前で村んぽ栄えをご祈祷なされたといわれる。
もともとはすぐれ原と言い、立派な野原を示したが後、勝原になった。
この地にあの有名な大和の豪族、長髄彦(ながすねひこ)の子孫が住む住むようになった。御年273才の高齢でなくなられたと言う。その墓は恐らく高塚山にあり現在に至っているものと思われる。
中性の頃は藤原氏が勢力を伸ばし住んでいたといわれ、近世には藤原和泉の守の領地ともなり、最初は一村であったが、文禄の頃別れて二村となり勝上村 勝下村と言ったのである。

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