「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「神野の民話」から
「神野山の神々」
神代の昔、イザナギとイザナミの国造り、人造りの時、火の神伽具土の神を(どんずりぼう、えべっさん古事記説)をお産みになったイザナミの命はミホトを焼いてヨミの国へ去られた。
 怒ったイザナギの命が伽具土の神を刀で切られた時、その御髪が舞い降りた所が神野山であった。そこでこの山を髪生山と呼び、万物発生豊𩜙の聖地としてその祖を伽具土の神としてあがめてきた。
その後この山に天降ったのが天の火明の神であった。アメノホアカリの神は別名繞速日命(にょぎはやひのみこと)と申し上げる。この神は天の火、天の明かり、即ち太陽をあらわす神として古事記によると天孫族として天降ったのが、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)即ち豊原であったといわれる。現在の豊原との関係ははっきりしないが恐らく神野山を中心とする豊原一帯であろうと推測される。
なぜならその頃、大和の国は葦原中津湖として波打っていたからである。
命はその頃土地の豪族として知られる長髄彦の妹三炊く屋姫を妻として次第に大和一帯に君臨して行った。
一方、饒速日命の弟の二二ギの命が九州日向国に降臨し三代を経て、カムヤマトワレヒコの命(神武天皇)の時、東征の軍をおこし、大和の国を制しようと軍を進められたのであった。
その時代大和には何人かの豪族が領地を治めていたが、とくに長髄彦は饒速日命を奉じて頑強に抵抗したのであった。この戦いの言い伝えは色々と残っているが、とくにどちらが本当の天神の子孫として天子の位があるか証拠の品を見せ合う場面は劇的なものである。
証拠の品と言うのは天羽羽矢と天歩靱であるが、お互いに見せ合ったところ、どちらの神も同じものを持っていたのであった。そこで饒速日命(大物主の命)は天照大神の神勅によるイワレヒコの命の東征を正当と認め、平和のうちにすべてを解決しようとされた。

一方、長髪彦はこれをゆずらず、抵抗の軍を進めたのでにょは止むなく、我が子のウマシマジの命と共に長髪彦を殺し、多くの兵士と共にイワレヒコの命を迎えたのである。
やがてイワレヒコの命は饒速日命の娘、伊須気依(いずけよりひめ)と結婚し、豊葦原の地で初代の天皇の即位の式をあげられ、神武天皇となんられるのである。また神武天皇東征以後もなお5.6百年にわたって皇族軍に抗したのは神野山を中心とする天の熊人のはるかな子孫で、そのw名を「熊」といわれていた人々であった。こうした人々が武内n氏のために亡ばされたことは現在残る伏拝、助命、勝はら、岩屋などの村落の位置や地名をもってわかるところである。
饒速日命の頃神々としては ミカハヤヒの命、ヒノハヤnヒの命などがあり、現在の玉塚は一応ヒhノハhヤヒの命の御陵といわれているが、以上三人の命のだれの陵であるかは今後の研究に待つしかない。
山頂近くに祀られていた神野大明神は春日神社の勧請によるもので、中世、神野寺と並び尊崇の中心になっていたが春日神社は明治43年大字大塩の八柱神社に奉遷された。また、神野明神は、奈良の三笠山に移され神野神社として祀られるとともに、神野明神は春日神社の祖となっているのである。
そして今もな、お奈良おん祭りの前夜には春日大社の神官がこの社にもうでそれから若宮おん祭りのが行事始まるのである。
タケミカズチ、二ギハヤヒ、ヒメなどの一族はもと蒙古や中央アジアの騎馬族で大陸をこえて出雲を制し大和入りしたもと考えられている
一方、ビルマ方面から海上を東へ、そして大和国へと進み、最後に両者和合のうえ、大和国を中心に全国を治めるようになったと考えらえるのである。

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