「うのん」の気象歳時記ブログ

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「神の民話」から
「瓦政」
その昔 といっても明治の頃、このあたりの家の屋根は草ぶきか、たまに見られる瓦ぶきも、平らな瓦を敷き並べ、雨露をしのぐに過ぎないものであった。
それが現在のような瓦になったのは明治の半ばを過ぎていた。
今でも残る「瓦政」銘の鬼瓦や棟飾り、それは名工「瓦政」の出現であった。数々の名作を今に残しながら「瓦政」その人は、なぞに包まれて、その生い立ちはだれひとりとして知るものはいない。
ある日突然、どこからともなく、こじき同然の姿であらわれたひと、そして北野村は「奥」の里にいつかしか仮り住いをつくり、瓦をやくようになったその人を、村人たちは「瓦政」と呼んだ
村の古老の言い伝えによると瓦政は、がんじょうで骨格たくましい人ながら反面、物静かなうえに文武に秀いで、ときには医術を使って多くの村人を病苦から救っている。

一説には明治維新の折、新政府に反抗した西郷隆盛と通じ、西南の役で戦ったともいわれる。

戦いに敗れ、厳しい追手の目を逃れてたどりついたのは京都の伏見、そこでたすけられたのが瓦屋であり、いつしか手伝った瓦作りが手になじみ、生れつきの天性のうえに、みがかれた技術を加え、いつしか芸術性高い独築いたのであった。
当時、鬼瓦はその名がしめすように魔除けの意味で、どこの屋根もみな鬼面ばかりであったが、それが瓦政のやく縁起物の七福神や、防火の願いを込めた龍となり、さらに美しい飾りをつけるなど、その並はずれた形のうまさとあわせて、当時の建築史上画期的な屋根瓦を改造した先駆者であった。
それ以降、よい材料を求めて、かまは杉原の峠から箕輪へと移されて行くが、その間に作られた作品の押型のいくつかは、今も東川家に大切に保存されている。
やがて瓦政は堂前の地でその数機な生涯を終えるが、当時の名工とうたわれ、興福寺の極楽坊のむね瓦に残される東川治郎藏のほか、当時の屋根ふき職人の草分けといわれる杉本善之丞ばどの多くの職人を育てており、名工「瓦政」は今もなお残る屋根瓦とともに、里人の心に強く生き続けているのである。

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