「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

孫太郎稲荷神社

孫太郎稲荷神社は薬師寺に南門すぐの所にあります。
 孫太郎稲荷神社は元は姫路にあったものを いつのころかここ西ノ京に移されました。
この地の六条柳町の古老の話によると 孫太郎稲荷神社は姫路城の守護神でありました。
あるとき城下の人々が食料に困っていたときこの孫太郎稲荷が城の倉庫から米を持ち出し人々を救いました。

この様なことから城を追い出されたという伝承があり 今も姫路の町からお参り来られる人がいます。


昨日のブログの薬師寺休岡八幡神社は

薬師寺休岡八幡神社

薬師寺南大門の南側に鎮座しいています。旧村社。
薬師寺の鎮守であると同時に 西京の郷社です。「大乗院雑事紀」文明4年(1477)によれば郷民達で雨乞いのために同社で 子猿楽 を興業したことがわかりました。また寺僧により八幡社八講 八幡十講などが催されました。 
本殿は三間社流造り 桧皮葺でその左右に各桁行三間染間一間一重切妻造の脇殿がついて三棟になっています。(国重文)
棟札によれば慶長8年豊臣秀頼の命で片桐且元が奉行として造営しました。
木造 神功皇后坐像 僧形八幡神 中津姫命の三体(国宝)は平安時代の優れた神像として有名です。

赤肌焼

赤肌焼 3回目です
垂仁天皇の時代瓦を焼く土はあちらこちらで採られましたが 優雅な焼き上がりと言われるのはここ五条山の土だけで 神器を作られていました。


室町時代から 風炉が焼かれる様になりまいした。

豊臣秀吉の弟秀長が大和郡山の城主の時代 茶道に明るい小堀遠州の父が家来で五条山の土が優秀なことを知ると 「与九郎」という陶工を招き釜を開かせ それが赤肌焼の起源となっています。神器などを焼き この土地の陶工達も 城主の命令によりj腕を磨くことにが出来たのでしょう。

赤肌焼

野見宿禰は天皇に殉死者身代わりを埴輪にすることの提案を認められ 土師職(はじつかさ)に任じられ 本姓も土師臣(はじのおむ)と改めました。住まいを今の菅原町に構え 五条山の土で埴輪作りをしたと伝えられています。この土地の 菅原神社には
野見宿禰と菅原道真が祀られています。土師氏は奈良朝末期に菅原姓を天皇より賜りそれ以降 菅原と称したといゆことです。

奈良西の京薬師寺近くの本のある喫茶店 うのん

西の京には 薬師寺 唐招提寺 昨日ブログで取り上げた 勝間田池の他に「赤肌焼き」があります。 古典的な柄を焼き付けたのが有名です。しかしながら殆どが青磁色 グレーや柔らかい白っぽいモノが殆どです。「赤肌焼き」の名前は ここ五条山は赤い土で焼き物に適した粘土を使って焼くためと伺っています。
 ここ五条山での焼きモノの歴史は古く 第11代天皇垂仁天皇の時代からです。 当時は天皇や貴族が亡くなると殉死の風習がありました。亡くなっても身の回りの世話に不自由がないように 側者 従者が同じ御陵に生きたまま埋められてました。垂仁天皇は これに心を痛めておられましおた。それを察して野見宿禰(のみのすくね)は埴輪を身代わりにすることを提案しました。その安を垂仁天皇は喜んで採用し 人 馬いろいろなモノをここ五条山で作る様になりました。
本のある喫茶店うのん
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