「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和の伝説」から
「多遅麻毛里(たじまもり)とたちばな」


上古(じょうこ)、第十一代の垂仁天皇さまは、大和国、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)で天下を治めておられました。
このお宮は三輪山の西北の」ふもと、穴師という所にありました。今はこの辺はミカンの畑が山すそから一面につづいて、大和のミカン所です。
また、この天皇さまの御陵は菅原伏見の東陵といって、西大寺から郡山の方向へゆく電車に乗ると、尼ヶ辻という駅のすぐ西の方にある、前方後円式のひょうたん形の大きな御陵で、周りにきれいな堀をめぐらしています。
気をつけておれば電車の窓からでも拝まれるのですが、この御陵の堀の中に、おまんじゅうのような形をした丸い塚があります。これが多遅麻毛里(田道間守)という人の塚なのです。なぜこの人の塚が、そんな天皇さまの御陵のお堀の中にあるのでしょうか。それにはこんな伝説があるのです。
たぢまもりは垂仁天皇のころの人ですが、たぢまもりという名のごとく但馬の国から見た人だと思います。先祖は天日槍(あまのみひぼこ)という人で、朝鮮の新羅の国から来た人です。
ある日、垂仁天皇は、常世(とこよ)の国に、ときじくの香菓(かぐのこのみ)という珍しい果物があることをお聞きになりました。この果物を食べると、不老不死といって、何年年でも長生きができるといううわさでありました。
そこで、ある日、たぢまもりをお召しになって、常世の国へ行って、この果物をとって来るようにと仰せつけになりました。
さて、この「ときじくのかぐのこのみ」という果物は何かといいますと、今の橘のことらしいのです。ミカンの一種です。また常世の国というのはミカンのできる一年中暑い南の国で、今の南方諸国のことでありましょう。垂仁天皇がこういう大事な役目をたぢまもりにおいいつけになったのは、たぢまもりは外国とも交通し、航海にもなれていたからだろうと思われます。
たぢまもりは勅命を受けて大へん感激し、何とかしてこの「かぐのこのみ」を持って帰り、天皇に献上申さねばと、大きな決心をしてこの日本の国を旅立ちました。
それから長い年月の間、大へん苦労をつづけ、海を渡って遠い常世の国へ着きました。そして見事な「かぐのこのみ」を持って、大和の纏向の宮へ帰って来たのは出発してから十年もたって後でありました。
ところがどうでしょう。帰ってみると、その垂仁天皇はおなくなりになったあとでした。たぢまもりはどんなにがっかりしたことでしょう。すぐ垂仁天皇の御陵の前に「かぐのこのみ」をお供えし、御陵の前に泣き伏して
「お天子さま、ごらんくださいませ。この通り仰せの実をとってまいりました。どうぞごらん下さいませ。」
とかぐのこのみを両手にさし上げ、くりかえしくりかえし御陵の前で泣き叫びつつ、とうとうさけびつづけて死んでしまったということです。

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