「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
雨乞の種々相
丹生系神社の内より
丹生川上神社 中社 の場合
同社略記によれば祭神は岡象女碑(みつはめのかみ)「岡象女稗稗は伊那奈枝 伊那奈美の神の子神を天照大神とは御姉妹」とあり、「水に関する一切の稗徳を受けられた」ともあった。由緒には天武天皇白鳳四年(676)「人声ノ聞エザル深山吉野丹野丹生川上二我身や柱ヲ建テテ敬祀セバ、天下ノタメ二甘雨ヲ降ラシ霖雨ヲ止メン」との神教によって祭祀せられた。とありこの年から五穀の豊穣を祈願する祈念祭が行われた。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「今井堂」



源頼朝と一戦をまじえてやぶれた木曽義仲(きそよしなか)は家臣・今井四郎兼平(いまいしろうかねひら)と共に、信楽・名張をへて、大和の田原郷隈笠(ひがさ)(今の奈良市日笠)にのがれ、ここに身をかくしていました。
頼朝におわれた義経が、奈良の興福寺へ行く途中、ここを通ったので、兼平は義経を討とうとしましたが、討つことができませんでした。
その後、頼朝が大仏殿にまいると聞き、兼平は興福寺のさむらいである衆徒の姿にかえて、一矢をはなち」ましたが、これもだめでした。
それでついに仏門にり、名を義兼法師(ぎけんほうし)とあらため六十四歳でこの世を去ったといいます。その、父、兼平のために七重の石塔をたて、義仲の霊と共に兼平の霊をまつったのが、今井堂であるということです。
また、今井兼平がここへ逃げてきた時、鏃で何か書きつけておいたという、石の手水鉢が苔むして今もあります。
また、兼平は巻物を持っていたが、それを、民家へ預けておいたそうです。しかし、それは、後に火事があって焼けてしまったそうです。
この今井堂から五百㍍ばかり東北に、義経の馬乗石というのがあります。馬のひづめがついているのだそうです。そのかたわらには、きれいな水が流れています。義経がここまで追うてきて兼平を見失い、馬に水を飲ませて、また馬に乗ったところだといいます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞いのの歴史
一般に稲作に必要な雨の量は2000㎜と云われる。一方古代、大和は他の地方よりも早くから展け東洋では中国西安の都について多くの人口をかかえていた。「奈良の都」は五穀の一大消費地でもあった。しかし、栗や稗 稲作に必要な雨の量は決して満足出来るものではなく、多くの池が掘られ垂仁天皇35年 履中天皇4年には長い溝も造られ灌漑用水の確保に務められた。更に旱魃の年は一辺が1㍍四方位いの「かくし井戸」さえ掘られ涙ぐましい努力と自己防衛に励まされた。以上のことは浅い山からの河川水は渇水し易く皿池は底が浅く農家の人達の心痛は想像を絶するものがあった。この様な状況の下では神仏に頼む他はなく祈りを捧げ甘雨慈雨の恵みを願った。個人で、少人数で、字や御中仲間が相寄り、更に多くの人達が様々ま手法を講じて神や仏に詣った。天皇自から足を運んだ例もある。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和の伝説」から
「柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とおふじの井戸」

柳生の殿様、柳生宗矩が、柳生藩の中にあった興福庵という小寺へまいった時でした。
ふいに一匹のネズミが宗矩の前にあらわれました。宗矩はすかさず鉄扇で打ちたたいたので、ネズミはそのまま影をかくしてしまいました。その翌朝になって見ると、なま血のしたたりが、伊賀街道につづいていました。
そのころ、柳生藩と伊賀の国とは境界のことで、いつも小さい争いがたえませんでした。
このネズミというのが、伊賀の忍術者であることを宗矩は見ぬいていたからだといいます。
そんなことがあってから、伊賀の関所では、柳生の者といえば、町人百姓にいたるまで、その調べが厳重になったといわれています。


その柳生の殿様、柳生但馬守宗矩が、ある日、柳生からむかしの柳生街道を通って、奈良へ行こうと思って、馬に乗って坂原という所を通りました。
村の娘のおふじという者が、井戸ばたで洗たくをしていましたので、宗矩はいきなり馬をとどめて、
「これ娘、お前はいま洗たくをしているが、そこの波の数はいくつあるか」
と出しぬけにおたずねなりました。おふじはすかさず、
「ハイ、二十一波でございます」と答えておいて、すぐ
「殿様、柳生からここまで、馬の足跡は、いくつほどございました。」
と聞きかえした。もちろん、殿様はグッとつまってしまいました。そして、大そうその娘の才気に感心し、お側に召し入れることにして、馬の尻に乗せて柳生へ帰ってしまいました。
おふじが洗たくしていた所は、おふじの井といって、今も奈良市坂原に残っています。
おふじはそれから柳生の殿様の妻になり、一人の子を産みましたが、この子がおおきくなり、柳生氏の菩提所の芳徳寺第一世の列堂和尚という、えらい坊さんになりました。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
馬見丘陵には谷の一方を堰き止めた不規則型のものが多く馬見丘陵は殆ど一筆ごとくらいに「つぼ池」といわれる小さい池が無数に存在している。平地部の池はほぼ整然としているのに対し丘陵や山ろくは不規則型のもので、両者は全く地形上の相異や発生の要因が異なるためである。タメ池の分布は盆地の北部および南西部にとくに多いようである。北部には比較的大きい池が多く南西部には小さい池が多いようである。こうした池の発達は盆地の雨の少ないことによるがとくに引水河川に乏しいことが最も根本原因である。このタメ池は非常に浅く「大和の皿池」と呼ばれている。