「うのん」の気象歳時記ブログ

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「神野の民話」から
「神野寺」
神野寺は740年、聖武天皇の天平12年、僧行基に勅して開創されたと言われる。
しかしその昔、髪生山といった頃、九州は筑紫の国から訪れた僧が庵をつくって住んでいたともいわれる。
その後、六百年時代、寺は髪生山一心院といわれ、代々一代寺であったため、無住職の時も多かったようである。
前の筑紫から来たお坊さんの時などツクツクボウシが鳴くとふるさとを思い出すため、村人たちが困ったそうでそれ以降神野山ではつくは鳴かなくなり、また野草のツクシも芽を出さないようになったということであ。


寺はもともと奈良興福寺の配下にあり、奈良朝から平安時代は長谷寺や室生寺をしのぐ大規模な寺として朝廷のおぼしめしもまた大いなるものであった。
清和天皇の巡幸、陽成天皇の燃燈料下賜など代々の天皇家と深い関係があり、とくに、嵯峨天皇の皇太子時代神野親王のお妃が病気になられ、神野伝えられる。即ち神野山にはそうした薬草や天地のイオンが満ちていたのである。

国宝、ミクロボサツは創建当時620年のもので立派な推古仏であるが、おしいことに火にかかっている。
神野寺は慶長3年、文化13年、明治10年と3回の火災にあい、往時のおもかげはほとんど残っていない。
しかし今の寺院の屋根瓦にも菊のご紋が残されており、祈願のため長谷、天理、奈良、三輪あたりから続々と人々が山を登り、読経と鐘の音が一日中響いていた往時がしのばれるのである。
現在、本堂には薬師如来を中心に日光、月光菩薩、十二神将などがまつられているが、昔から西の聖天さん(生駒)東の聖天さん(神野寺)と言われ名高い聖天像(男女合体像)は今は秘仏となっていて、これを見た人はいない。

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