「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

奈良の大路 一条大路(佐保路)

平城京の」一条大路で、東大寺の転害門から西にのび、平城京に通じる大路である。奈良時代創建の総国分寺東大寺と総国分尼寺法華寺を結び、沿道には、大宮人たちの住居のあったところで、当時大宮人が桜かざし、万葉集をひもとけば明らかである。平安遷都後も、京都、大坂北部からの交通の要路であったこちょは、枕草子、蜻蛉日記をはじめ江戸時代の奈良名勝記、大和名所図絵、大和名勝案内記などに書かれている。現在も旧奈良市の北方における商店街として賑わいをみせている。
この道にそって聖武天皇佐保南陵をはじめ、仁正(にんしょう)皇后佐保東陵、興福院、不退寺、海龍王寺、法華寺といった名刹や狭岡神社、常陸神社がある。この道は古都奈良の往来を偲ぶにふさわしい道として多くの人々に親しまれている道である。

奈良の町色々 平城京極大路 = 京街道

この街道は明治18年国道49号線となり、さらに大正9年4月に国道15号線となった京都と奈良を結ぶ重要な道路である。
平城に都を遷され、平城京が計画された際、京東へ三坊fがひろげられ、この道路がその京街道となり、東大寺と興福寺がこの道路を境界として計画された。それ以来、この道路は東大寺、興福寺の建立に必要な用材が運ばれた道、また、興福寺の僧兵が春日神社の神木をかついで京都に強訴した道、平重衡が三万の兵を率いて南都を焼討ちに兵を進めた道でもある。また、東山間への道(月瀬街道)の入口になっている道でもある。したがって東山間および京都相楽羣の人々が生活必需品をこの道を通じて奈良に求めたので、この街道は旅館と商店の街として大きく発展をみた。明治5年の今在家町戸籍簿によると商業32戸 工業23戸 農業1戸 その他3戸となっている。昭和13年国道15号線の改修で登大路・奈良阪間の道路の拡張とその一部、バイパス線が計画された。戦後、交通機関の発展にともない交通量も年々その数7を増すこととなったので、京都木津町から法華寺町を経て大和郡山市の横田に通じるバイパス線が計画、昭和47年、木津町から三条大路まで完成をみたので国道24号線がこれに変わり、従来の国道は県・市道となり、交通量もやや緩和することになった。
古くは東大寺の西門(転害門・焼け門・西門)がこの街道に沿って設けられ、転害門は現在も創建当時の面影を残している。そればかりではなく、この通りはに建ち並ぶ民家も古都奈良を偲ばせるものがある。国道の改修によって民家の一部改造されたところもあるが、明治時代に建立された二階建ての堂々たる人家の建ち並景観はこの町に住む人々の意気を示すものであり 江戸時代から明治・大正・昭和にかけてこの地の発展を今に物語っている。


転害門は奈良県庁舎を北側 「きたまち」と呼ばれている。古くからの伝統ある店も現在ある。

奈良の町色々 登大路町

現在 近鉄奈良駅から東大寺に向かう辺りを 「登大路」と呼ばれていますが


「平城坊目考」に「興福寺流記云東里二十七北限従東大寺小路 春日里直葛中尾を登る 是登大路之濫觴也」とあり、「奈良坊目拙解」には、「南都では東を上とし、西を下と呼ぶ習わしとなっている。春日明神が東山に所在している所以なり」と述べ、さらに当町から春日率川宮(昔の野田村)を通り、春日の里および東大寺南大門前に至るのが往還路である。これによって「登大路」と名付く」とある。なおこの通りについて「登大路町は東は東大寺南門通大路西側溝北向荒神之西、南は春日野行宮の北掘墻、西側は法雲院、北側は氷室社地の東、北側は吉城川南岸を限る」と記し、その間に芝居屋敷 富士垢離(くり)行家、大知院、愛染堂、木曽覚明古墳石塔、氷室神社、魅塚などのあることを詳しく記されている。明治22年発行の「平城坊目遺考」には「江戸時代にあった大智院や北向荒神社、宝蔵院、宝珠院などは明治維新の際廃社寺となり、登大路町と野田町が合併し、春日村となった。」
現在、猿沢池および辷り坂から一の鳥居を経て奈良国立博物館、奈良県庁、近鉄奈良駅前の地域、主としてもとの興福寺境内登大路となっており、さらに通称町名となっている。
興福地 藤原鎌足が京都の山階寺を創建したのがこの寺の起原で、橿原に移って厩阪寺となり、さらに平城遷都とともに現在地に藤原不比等によって移建され、名を興福寺と改めたのがこの寺である。この寺は藤原氏の氏寺であったが、聖武天皇が東金堂、光明皇后が五重塔
と西金堂を建立され、皇室の尊崇も厚くなり、官寺としての取扱いをうけることとなった
「奈良歴史案内」で興福寺が亀の寺であったと記し、興福寺の寺


地は「亀の甲」の形そのままして寺院をたてた。藤原卜部から出て来た民族であったためであろうであろうときしている。

薬師寺 修二会花会式

鬼のごちそう


修二会とは奈良の大きなお寺が五穀豊穣をなどをお祈りして行なわれる行事である。薬師寺では3月25日から31日にかけ行なわれる。最終日の31日には「鬼追い式」がありそれで結願となる。
その鬼にごちそうがふるまわれる
薬師寺は飛鳥浄御原宮に建立されたが。都が奈良平城京に移った時、現在の地に移築された。花会式は 堀川天皇が皇后の病気平癒を願い薬師如来のい祈願され、その全快を感謝して十種類の造花をつくり献花されたのが始りでそれを絶える続いている。
十種類の造花は 梅 桃 山吹 杜 桜 椿 菊 百合 牡丹 藤 を薬草で色つけをして本尊の薬師如来に供え祈願される行事である。
この結願の最終日に境内の灯が消され 鐘や太古法螺貝などの音とともに 松明を振りまわし鬼が金堂の周りを大声で叫びながら暴れ回り 最後に毘沙門天が鉾を持って現れ 鬼どもを退散させる。
この「鬼追い式」に入る前に、鬼にごちそうを出して酒を勧める儀式がおこなわれる。この鬼のごちそうは 秘伝とされ信者によって受け継がれている。調理する方々は 白装束で作られる。
 酢の物は、ほうれん草をそろえてゆで、鬼の形に切って、酢蓮根と一緒に器に盛ったもの。
煮しめは、高野豆腐、椎茸、人参、蓮根、湯葉を含め煮にして青身のキヌサヤを添えて、根来塗りの平椀に盛り、ほうれん草の白和え、煮豆などを根来塗りの折敷くに並べる。
別に高野豆腐をもどして、小型の拍子木に切っ油で炒め、酢と塩で人間の肉の味付け、リボン状に切った昆布を水に浸して柔らかくして油で炒め、酢と醤油で味付けして人間の皮膚の味に見立てたものをそれぞれ高杯にもりつける。
このごちそうを別室に待っている鬼の前に運び、僧侶たちによって大きな根来塗の杯になみなみと酒がそそがれ、鬼が酔うまで勧められるのである。こうして酔った鬼たちが、いよいよ夜になって松明をかざして暴れ回り、すさまじい「鬼追い式」が始まるのである。


奈良の町色々 三笠山麓町

若草山の麓に発展をみた町で、奈良が宗教都市から観光都市へと移った江戸時代から社寺巡礼の客、ならびに若草山を登る人々を相手とす名産店と旅館が軒をならべている。若草山は全山芝生におおわれ高さも三百四十二メートルといったなだらかな山で、婦人子供でも楽に登ることができ、山上からの展望がすばらしいので、古くから大和・山城平野の展望台として、また憩いの楽園として人々に親しまれてきたところである。明治初年にはこの芝生を利用して乳牛百頭を放ったこともあった。現在のように発展をみるようになったのは明治の初期から中期にかけてといわれている。吉城川の上流を界して手向山神社と氷室神社氏子にわかれている。東大寺と春日興福寺との界がうかがわれる。