「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

奈良の 柳生街道

高円山と春日山との谷間を能登川に沿った山道で、古くはから東山中と奈良(国中)を結ぶ重要な道路であった。南都諸寺の僧侶の修業道路でもあった。この道に沿って弥勒菩薩や地蔵菩薩を刻んだ石仏が各所に点在している。この道は大柳生を経て江戸時代に、「切る武道」から「人を活かす武道」へと育てた柳生新蔭流」を生んだ柳生に通じるところから、一般に柳生街道と呼ばれるようになり、江戸時代には多くの武士たちが柳生の里へとこの道を通ったことであろう。途中に荒木又右衛門の試しぎりの地蔵と呼ばれる地蔵石仏がある。
誓多林町・須山町と大慈仙町との分かれ道のところに天保元年(1830)の銘のある灯籠がある。俗に「おかげ灯籠」と呼ばれており、奈良から伊勢への参宮街道となっていたことがわかる。
破石町から石切峠までの道は自然石が敷きつめられて道路の破損を防いでいる。
柳生街道は静かな所である。この道に沿って 大慈仙 忍辱山 大柳生 阪原 柳生といった集落がる。忍辱山にここは、柳生新蔭流を生んだ柳生の里である。

奈良の 笠置街道

奈良

                    (昨日と同じ地図参考にご覧下さい)
市川上町から山の間をぬい中の川町・須川町を経て前川町・白砂川にそった狭川町・廣岡町をすぎて笠置に通じている路で、鎌倉時代簀川路ともいわれていた。「東里村史」によると、簀川・鳴川がはじめて文書にみえるのは天平勝宝八年(756)で、東大寺の文書のなかに「勅定山界四至 北一堺簀川上高峯・三堺鳴川北横峯井梅谷云々」とある。北町字宮山および須川町字小森には十七基の円墳がある。「奈良市史考古編)ことが調査の結果、詳かになったので、六・七世紀のころに、すでに人々がすみついていたことが明らかである。東鳴川町には行基菩薩の創建という善根寺の跡も残っているところからすると、古墳時代から相当人々が住居していたことがわかる。


戦国時代、須川に簀川氏が山城を築いたこと その周囲に寺院が建立されていたということである。このころ狹川にも狹川氏や福岡氏の山城があった。


今日の薬師寺


奈良の 東部の名前色々

奈良の東部


奈良市の東部を 東山(ひがいやま)と呼んでいる。地理的には大和高原」といわれいるところで、標高300㍍から500㍍といった山地で南から北へと傾斜し、起伏のあまりない波状的な山地で、布目川・今川・白砂川・などはそれぞれ平地(田原 大柳生 柳生 阪原 pr巴地(おうじ)須川 狭川 など)を」つくり、南部から北部へと流れ木津川に注いでいる。
この地方にいつごろからか人々が住み着いたのであろうか。柳生 田原 大柳生 狹川の平地に接した丘陵に六世紀から七世紀にかけての古墳が点在しているので、弥生時代に人々が住み着いていたと思われるが、住居の跡は発見されていない。しかし、各所に横穴式の古墳の存在するところからすると、この時代すでに集団的に居住していたことが立証される。古墳の存在から考えると、川にそった平地に住居をかまえ、農業 林業が主な産業であったことが伺えるが、こうした人々は一体どこからきたのであろう。国中(大和平野)から能登川 岩井川 にそって田原 狹川 大柳生 の盆地に住みついたのか、それとも淀川から木津川(泉川)をさかのぼり布目川 今川 白砂川にそった平地に移り住むようになったとも考えられる
国中には和珥族ゆかりの大宅族 春日族が五・六世紀に住居していたといわれているので、これらの一族が山地に移ったと考えられる。さらにふるくから木津川に沿った京都府の土師 棚倉 飯倉 市坂などに古墳が多く点在し、「日本書記」には欽明天皇の26年(565)高麗人を山背に置かれたことを記し、現在地名として高麗(こま) 上狛 下狛があり 狛族の建立した
高麗寺の跡残しているので、こうした人々は泉川をさかのぼって住み着いたと考えられる。
大化の改新の際、全国を国、郡 郷 に統一区割りされた。「和妙抄」によると大和国に十五郡八十九郷が記されており、添上郡は山村 楢中 山辺 楊生 八島 大岡 春日 大宅の八郷が記されている。大化の改新により、土地制度として班田収授をおいて線引(東西の線を条・南北の線 を里と呼んだ)が行なわれた。これを条理制と呼んでいる。さらにこの区域を三十六等分したものを「坪」と呼んでいる。各地の地名に二坪とか五坪 九坪 といった地名が残っているのは、その名残りである。
しかし、東山方面に人々が多く住むような萠しを見たのは、やはり都が平城に遷されてからと考えられる。


薬師寺をお守りしている休が岡八幡神社 の桜です。


奈良の町色々 西大寺

このあたりは平城京の一条三坊にあたるところで、称徳天皇が東大寺にならって創建された西大寺のあるところである。
西大寺は称徳天皇が藤原仲麿の反乱があったので、再びこうした不祥事がおこらないようにとの念願から国家鎮護の仏像とされている四天王像の造立を発願されたとのがこの寺の濫觴となったように西大寺の資財流記帳に書かれているが、もう一つの願いは聖武天皇が創建された東大寺に対して、女性としてこれに劣らないような華麗な大寺を自らたてたという願望があったからのようである。
この寺の造営に天皇はしばしば御幸になり、造西大寺司などに位を勧められるなど、造立に大変関心を持たれたが、完成までには相当の年月がかかったようである。しかし、できあがった堂宇は百五十余宇におよび、まことに華麗であったことは「西大寺資財流記帳」や西大寺にのこる西大寺伽藍絵図によってうかがうことができる。
しかし、その後、承和十三年(848)貞観二年(860)延長五年(927)とたびたびの火災にあい、創建当時の宝物は大部分消失したが、鎌倉時代に叡尊(興正菩薩)が新しく真言律宗の寺として再興し、光明真言土砂加持つ法要、修正会、大茶盛りといった行事を創始し国家の安泰と大衆の豊楽を祈る寺とし、国家から大衆からも大きく信仰された寺となった。その後、またまた、文亀年間(1501~04)に火災にあい、江戸時代再建されたが、創建当時には及ばなかった。したがって西大寺の広い境内は田圃や芝原と化し、そこに民家がたちならぶようになったことは、現在通称として残っている。また南都七大寺の一大寺として多くの国宝 重要文化財が保存されている。

うのん から 卯月のお知らせ

天理市に出来た施設です。
奈良の歴史の体験型施設です
奈良の知識を持って奈良を楽しんで下さい


今日の薬師寺と桜



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