「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

奈良
閼伽井町(あかいちょう)
(新薬師寺から西側 )
元禄12年の町家改帳に家数22軒とある。現在ここに閼伽井庵がある。庵についての記録は安政の大地震であくなり、創建については詳かではない。しかし、新薬師寺の閼伽井坊と関係があるのではないかと考えられいる。この庵に「易の神」と称する鎮守霊符神(銅製の神像)がある。建武2年」(1335)乙亥正月奉之楠正成謹とある。ここでは、古くからソロバンによる算易がおこなわれて来た関係によるのであろう。
また、聖武天皇が眼病にかかられた際、この庵にある井戸水で洗眼されたというy。またこの井戸の底に玉が光っていたので、これを取上げて七重の箱に納め南円堂に安置してあるとも聞く。

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奈良
東向通り
平城京の外城京の外京六坊大路の名残で、東側に興福寺の伽藍がたちならび、西側はその別院や菜園のあったところといわれている。鎌倉時代大和一円を支配していた興福寺の勢力はたいしたもので、かりそめも伽藍の近辺に商家を作らせず、商店の二階造りさえも堅く禁制されていた。従って興福寺に面した東向通りはわずかに道の西側だけに人家があっただけで、これも永禄年間のころ、はじめて東向きの人家がたちならぶようになった。

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奈良
多聞町
松永久秀が永禄3年(1560)佐保山に城を築いた。我が国の城廊史で重要な城といわれ、美しい城であったようである。当時ポルトガルの宣教師ルイス・ダルメイダが本国に送った報告書に、この城について「世界中にこの城のごとく善美をつくしたるものはないと考える」と書いている。
この城は後来の山城と異なり、城の周囲に長屋門を数カ所作った。それで、この城を多聞城と呼ぶようになったと伝えているが、一説には松永久秀は信貴山の多聞天を深く振興していたので多門城と名付けたともいわれている。その多門城から多門町に因んでの町名となった。

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奈良
油阪町
旧名を府阪と呼んでいた。享禄年間の「七郷記」にも「府阪南方」を記している。府阪は上古近衛府の領地で、府阪と称するといわれていたが、古老の話によると、春日神社と灯明油がこの府阪の油工業者から献じられたので、俗にいつのころからか油阪と呼ぶようになったと「奈良坊目拙解」にある。

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奈良
今御門町
奈良に七御門と称する門(東御門 西御門 中御門 今御門 高御門 下御門)があった。
そのうち東御を除いた六御門は現在町名として残っている。東御門は興福寺の東門のあったところといわれ、現在 京街道登大路町の道路が接しているところにあったという。下御門は元興寺にあった門を称していたようである。
下御門町は 餅飯殿商店街から南に続いた商店街がある。歴史ある雰囲気がある商店街である。