「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

春日大社鳥居鳥居

外部資料


平城京の三条大路が七坊大路と交わるところにあるのが春日大社の一の鳥居で、ここから春日大社の参道が真直にのび、鳥居の右側に春日大明神が鎌時代に翁の姿となり翁舞を演じられたと伝える影向の松があり、春日若宮おん祭の際は、この影向の松に対し、細男・猿楽・田楽といった諸芸能が演じられ、この一の鳥居からの渡行を上の渡りと称し、競馬や流鏑馬、大名行列などの儀がおこなわれる。
一の鳥居はこのように春日大社への参道を示す重要入口であり、ここからは神聖な春日大社の境内であることを示しているといえよう。
春日大社の一の鳥居はわが国の重要文化財に指定される。「現在の鳥居は昭和36年(1961)の第二室戸台風で倒れたので、古式に則り再建されたもので、高さ6.75㍍足元柱間5.2㍍、柱の直径0.98㍍ 地下1.9㍍に埋置された礎石に掘立てられ、笠木は黒にその外は朱を塗った。創建は詳かではないが、春日大社の社伝によると承和3年(836)とあるが、文献によると康平6年(1063)といわれている。いずれにしても春日大社創建といわれている神護景雲2年(768)より後にたったものであることには間違いない」と「奈良市史建築編」に書かれている。



本のある喫茶店 うのん
■住所630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡:0742-43-8152
■✉:honcafeunon.nara.nisinokyo@gmail.com
■https://sites.google.com/

大安寺 2

大安寺の境内に竹が植えられている。
竹で温めた酒がガンの予防に有効であることがわかり、古くから九州地方の農家で山仕事や農作業の際、竹筒で酒を温められている風習のあるため、大安寺の再興に工夫に工夫を重ね、有職者との懇談の結果、考え出されたのは ガンにかからぬ予防として笹竹をふるまうことである。
笹竹は野外で焚火で太い竹の筒に清酒を入れてあたため、それを笹の葉付の小さな竹筒の杯にうつす。その時、自然におこるコボコボといったかすかな音は和やかで、酒酒をいただく。この行事によって ガン封じの寺として知られるようになった。


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薬師寺 2


薬師寺の飛鳥(橿原市)から今の移築について 薬師寺縁起のなかに「薬師寺の金堂の跡は本これ龍池なり、件の龍をば勝間田池に祀り移さしめ 小石をもって池を埋め その上に金堂を立つ。即ち天皇の御師柞蓮法師入室して龍宮の様を見てこれを模すなり」とある。
薬師寺には、龍王をまつる十八大龍王神社があり、勝間田池と呼ばれている大池の水利権について薬師寺が関係している点から考えると、この縁起も単なる縁起とは考えられないこといになり、江戸時代には大津宮とも呼ばれていたことが記録に残っており、「当麻町史」には「大津皇子ハ悪龍となり 暴れたので、これを鎮めるるために隆福寺をたてた。今の掃守であり、薬師寺の僧侶が毎年七月に来て法要をつとめたらしい」と記されている。


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薬師寺

薬師寺は交通の関係から裏から入る人が多いが、南門から入るのをお薦めする。
この寺は平城遷都とともに飛鳥にあった薬師寺を養老二年(718)に西の京に移された。大官大寺(大安寺)と朱雀大路をはさみ、六条大路に並んで建てられた。
大安寺は下記の地図(明治20年 うのん所蔵)南門前道は薬師寺南門前につうじている。


昭和45年(1970)以来金堂は西塔 中門 伽藍が再興された。南門を入ると、左右に東西の塔が目に入る。
下の写真は西塔が再興される以前に 今はこれから永遠にみることが出来ない 西塔の心柱跡に溜まった雨に映る東塔の姿が美しい




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奈良晒

奈良晒といえば一般的に余り知られていないが、江戸時代には奈良町の特産といわれ、奈良町の人々の90%はないかしらのこの奈良晒に関係していたといわれるほどであった。
貞享年間(1684~87)に「奈良曝」には「曝蔵方28軒 曝問屋方32軒 青芋問屋6軒 布モミヤ六軒 曝屋24軒 曝数合30軒 布中買6~7百人 ぬきかせ屋14軒」と記しており、いかに多くの人々がこの業にかかわっていたかが知られている。
奈良晒というのは麻を糸につむぎ、それを布に織上げて晒したもので、江戸時代のはじめ清須美源四朗がはじめたといわれる。汗をはじき肌ざわりもよいので、夏着として一般に愛用されたばかりではなく、武士の上下 神官 僧侶の衣料として親しまれていた。東北地方から麻糸を買い集め、江戸幕府の格別の保護のもとで、主に東山間(田原 月ヶ瀬)で織られ奈良町で晒し、織物として仕上げたところで奈良晒とよばれるようになった。
しかし、明治維新の廃藩で武士は浪人になり、僧侶も還俗することになったため、需要が激減し、他の地方においても絹織物 木綿織物 麻織物が続出し、徳川幕府の配慮で大船に乗ったつもりで安心していたためか競争に勝てず、遂に蚊帳の製造に転じたり、廃業する業者もでた。
現在奈良晒が見直され 奈良のあたらしい工芸品として製作されている。


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奈良晒といえば一般的にあまり知られていないが、江戸時代には、奈良町の特産といわれ、奈良町の人々の90%はなにかしらこの奈良晒に関係したといわれるほどである。