「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

#文殊院 桜井市安倍文殊院 3月25日 26日

外部資料

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桜井市、安倍文殊院の文殊菩薩は、丹後の切戸・奥州の永井とともに日本三大文殊の一つとして全国に知られ、会社は陽春三月二十五、六両日にわたって行われる。
獅子背上に座し、右手に降魔(ごうま)の利剣を左手に蓮華(れんげ)を持つ木造文殊菩薩は、総高5.8メートル鎌倉時代の巨匠快慶の作として有名である。文殊菩薩および脇土像は明治34年に国宝となり、現在、重要文化財に指定。かつては「獅子くぐり」といわれる獅子の股くぐりも、くぐれば知恵がふえると伝えられて試みる人が多かったが、昭和48年から中止された。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152

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#法隆寺会式 3月22日~24日

外部資料

た堂

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この会式は聖徳太子の霊おまつりご聖徳を追慕奉さんする法要で、寺では聖霊会と称し、一般には法隆寺会式と呼んでいる。
この会式の起源については詳かではないが「古記」によると夢殿を再建した行信僧都が聖武天皇の勅許を得て2月22日(太子のご命日)におこなったのが起源といわれている。天平20年(748)の聖霊会には三百人余人の僧侶が参加したと記録されているのを見ると、いかに盛大な法要であったかがうかがわれる。
現在、聖霊会は保元二年(1121)東宝の南端を改造し聖徳太子の像を安置され、聖霊院となづけらた堂で行われているが、古くは夢殿で行われていたようである。いつごろからここに移ったかは明らかでないが、この会式に唱える太子和讃は明徳上人作と伝えられ、解脱上人もこの聖霊院で太子講を営み、会式講式は元久三年(1204)に書写された如意輪講式によっていること、また太子の信仰が盛んになり、太子を観音の化身として讃歌し、南無太子像や太子七歳像が造顕されたことなどからすると、鎌倉時代に移ったのではないかと思われる。
この会式は、古くは太子のご忌日にあたる2月22日から24日となり、5日にはこの会式の事はじめの儀がある。14日の会式はお供えの団子造り、15日は架あげ、18日は花形壇の夢台かけ、20日は素弥山を型どった大山立、21日はお建夜よいった順に準備され、22日から24日にかけて法要が聖霊院で厳修される。法要中は本尊聖徳太子の尊像(秘仏)が開扉され、一般に公開される。
この法要で珍しいのは大壇と須弥壇との間にある須弥山を型どった大山立で、2.5メートルもある大きなもの。その先には割り竹の先に団子で造った五色の鳥を飾り、その下に火炤をあらわした餅や日月をあらわした餅で囲み、さらに梅、水仙、みかん、柿などで壮厳されたものを大きな三宝にのせたまことに見事なものである。なおこのほか、大山笠の前に、この法要に用いられる五穀の一つずつを棒状にしたもの、宝前の花形壇には紅白の鏡餅を供える。
22日の法要はあ午後一時すぎから散華にはじまり、太子講式により、太子講式によりおごそかに奏楽のうちに行われる。

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#春日大社の御田植祭 3月15日
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この祭りは、五穀豊穣を祈願する祭典で、御田植祭と御田植神事からなっている。
「社記」によると「二条天皇の御代の長寛元年(1163)正月の申の日にはじめておこなわれた」とある。祭典の方法については精しい記録がないので詳かではないが、比較的精しい記録を伝えているのは、天文五年(1740)に村井古道の記した「南都年中行事」である。
現在、春日大社でおこなわれている御田植祭とは、ほぼ同じで、わずかに衣装の一部があらためている程度である。
この行事は「社記」のも記されているように、古くは正月の申の日におこなわれていたが、明治五年(1872)に神社改めがあり、それ以来、現在のように三月十五日となった。
御田植祭
午前十時から本社でおこなわれてる。まず修祓にはじまり、次に神饌を撤して大社での祭典は終わる。
つぎに若宮・榎本神社に参進し、大北と同じ祭典があって御田植祭は終わる。
御田植神事
午前十一時、神楽男・八乙女・田主(たぬし)以下各役の人々が若宮神社の神楽御殿前に参集し、そろって修祓を受けたあと、林檎の庭で御田植の神事にうつる。
まず、唐鋤行事と称する田圃を耕す作業からはじまる。白丁の姿の「口取り役」が、紺布に身をつけ、頭に牛の面をかぶり牛に扮した牛男をひき、鳥帽子に素袍の作男が唐鋤をあやつり田圃を耕す所作をしたがら、林檎の庭を三周してこの行事を終わる。
次に鍬行事にうつる。これは鍬で田圃を耕す所作で、作男は庭の中央に進み、一損した後、鍬をとり、中央正面で左・右・中と三度、土を耕す所作をおこない、さらに左面・右面で同様の動作を繰りかえし、一損して終わる。
次は馬把(まくわ)行事で、耕やかされた土をならす作業である。唐鍬の行事と同じように馬把(まくわ)をあやつりつつ庭を三周する。
次は地産(ちさん)行事で、「こまざらえ」と称する農具を使って鍬行事と同様に土の凹凸をなおし、田圃を平にし、一損して終わる。
これで一応、田圃造りは終わり、いよいよ八乙女による御田植の所作に移る。
朱塗りの中門を前に、素木造りの幣殿・舞殿を後にし、美しくは清められた白砂の林檎の庭に、白衣の緋袴をはき、腰に桧笠(俗にかえるかごという)をさげ、赤い襷をかけた八乙女が神楽男の「わかたね うえほよ 苗たね うえほよ」とうたう御田植歌のリズムにのせて、静かに御田植舞と田植、それに豊作の所作などしとやかに演ずる光景は、優雅で、王朝の昔を如実にしのばせる。約30分ほどでこの神事は終り、続いて榎本神社・若宮神社で同様の神事が繰り返される。
神事が終わった後、参拝者の希望により、松苗を授ける。江戸時代には若宮御供所で参詣者に授与されたほか、二の鳥居から社頭にかけて、松苗や蘇民将来の守などおびただしく販売していたことが「南都年中行事」に記されている。
これらの松苗は害虫の災を防ぐために苗代の水口にさす風習は今も残っている。
この松苗は江戸時代に百毫寺村の杉町の松葉を用いたことが故実になっていると、「南都年中行事」に記されている。
御田植歌
一 わかたね うえほよ
  苗 たね うえほよ
  おんなの手に手をとりて
  ひろいとるよ
  ヤレヤレ ヤレヤレ


二 みましも しげや
  わかなえ とるてや
  しらたま とるてこそ
  しらたまな
  ゆらや とみくくさの花
  ヤレヤレ ヤレヤレ


三 ふくまんごくに
  ほんごくへ
  うえちらして
  手に手をとりて
  ひろい とるとる
  ヤレヤレ ヤレヤレ



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時代の変わり目の若き志士たちです
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今月のお休み予定
6日(月)7日(火)
13日(月)14日(火)
19日(日)20日(月)21日(火)
27日(月)28日(火)

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#桜井市の八講祭




外部資料


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桜井市多武峯付近、談山神社を心のふる里とする生田(おいだ)浅古(あさご)下(しも)倉橋 下居(おりい)多武峯(八井内、百市、飯盛塚、鹿路、針道 多武峯、西口)横柿 今井谷の八か所では八講祭が行われている。昔は北音羽(きたおとわ)もふくまれていたが、大正九年から講を退き、多武峯が新たに加わった。それぞれに八講堂という特徴のある小堂がある。
この八講は年番交替で行ない、浅春の三月十二日正午頃から、談山神社の御祭神藤原鎌足公親子の画像ならびに寒山拾得(かんざんじっとく)の軸をかかげておごそかに執行される。
画像の詳細は中央に鎌足公の坐像、その右に定恵(じょうえ)和尚、左に淡海公(藤原不比等)を描き、その周囲に諸菩薩および多武峯縁起を図示した曼荼羅様の長さ約3メートル(一丈二尺余)幅約1.5メートル(五尺)の大幅である。寒山拾得は共に唐の高僧で、文殊、普賢の化身とされている。
「八講」とは、法華八講からの名称らしい。法華八講とは法華経八巻を八人に分かち、八座に読経供養する法会をいう。すなわち、天暦二年(94)十月、実性僧都がはじめて多武峯の寺に法華八講を修し、その後この地で盛んに行われた法華八講が、寺とは別にその近在の民間で八講の講社として組織されていったものであろうと思われる。八講中に大字多武峯の加わっていなかったのは、むしろこの講が寺とは別の行事であった証左でもあろう。
八講祭は三月十一に宵宮祭、十二日に本祭が行われる。神事奉仕中に祢宜一名、副祢宜二名がおり、大字の長老とか講にゆかりの深い家筋の中から選ばれる。
まず宵宮祭は、早朝から役員が羽織袴を着て大字の八講堂に参集し、(多武峯の場合は談山神社)、神饌の準備をし、午前十一時頃に村人に触れをする。祭り始めの太鼓が鳴りわたると、鳥帽子、素袍姿の祢宜や福祢宜が白布で口を覆うて、鎌足公画像(八講はん)を正面にかかげる。その間一同は謡曲をうたう。掛け終わるといろいろの神饌を献じ、寺の和尚が「談峯大権現式」という長文の古い式文をよみあげる。ついで般若心経を誦し、一同が「南無山大明神」と十ぺんとなえて祭式が終わる。一般の人々はこの式の間に随意に参拝する。祭式ののち後宴があえい、島台や三宝(俗に花という)を出すときに謡曲「高砂」または「四海波」をうたう。
本祭は十二日正午頃から八講堂で行われる。翌年の当番の大字から祢宜らの役員四、五人が鎌足公画像のお迎えにやってくる。この翌年当番の大字を下座受という。一行が大字入口まで来ると太鼓をならし、本年の当番側の代表者が出迎えにゆく。
祭式は宵宮祭とほぼ同様で行い、終わると双方の祢宜が、一同の唱和する謡曲とともに画像を巻きおろし、祭器の引継ぎをおこなう。
下座受の一行が、「高砂」をうたいつつ、祢宜は「八講はん」を、福祢宜は金幣を棒持し、列を正して帰ってゆく。下座受の大字の八講堂に着くと、画像を奉斎して祭式を行う。その後の一か年間は五節句及び毎三回、村人が交替でお灯明をかかげ、七月十六日に虫千祭りをおこなう。
なお、八講祭の宵宮、本祭が行われる時間帯は、その年によって変わることがある。

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