「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「大和の江戸」

♩♩♩ 下田よいとこ
    大和の江戸や・・・♩♩♩
という唄がありますが、明治になる少し前に「権の守」という者が、「さすがに、下田は大和の江戸や」と感心した話があります。
そのころ、権の守と名乗る者が、大坂方面から関屋まできて
「十津川まで行くから、関屋から高田まで送り迎えの人足をよこせ」
と下田村へいってきました。
当時、下田は郡山藩の下でありましたが、郡山藩から「権の守」については、何の通知もないのでいくら催促してきても、人足をだしませんでした。そこで、権の守の方はそびれを切らして、ひとりで下田へのりこんできて、かま屋という道者宿に宿りこんで、えらい勢いでかけ合ってきました。
人足を出せ、出さぬと押し問答すること数日、下田では困って郡山藩へ、どうしたものかとうったえて出ました。すると郡山から足軽の鉄砲組をよこしてくれました。
鉄砲組がかま屋へ乗りこんで行きますと、権の守は白装束に向こうはちまきで太刀をつかんで奥から出てきました。ここぞと鉄砲組では豆鉄砲をうったので、顔へあたりました。権の守はびっくりしておとなしくなり、ついにつかまったといいます。
ひかれて行く時、権の守は、
「下田の村役はなかなかしっかりしている。だまされんよらん。さすがに下田は大和の江戸や」
といったといいます。権の守といったのは、実は十津川の男で、京都で医術を習って故郷へ帰る途中であったということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

コロナウイルス感染予防の自粛生活 その予防しながら社会生活が活発になってきて奈良西ノ京周辺にも人が来ていらしゃいますので この辺りをまたブログにしたいとおもいます。
まずは 奈良の観光パンフレットにもよく見る有名な風景から ここに来られる人はイベントの時以外は少なく ゆっくり風景に浸っていただけます。


「勝間田の 池はわれ知る 蓮無し 然言ふ君が 髭無き如し  
                  婦人  万葉集 巻十六 三八三五
いまの西ノ京の唐招提寺は万葉の最後の天平宝字三年(759)の建立で、寺地は右京五条二坊にあたり、もと天武皇子の新田部皇子(にいたべのみこ)の旧邸であった。皇子は天平七年(735)になくなっているからこれはそれ以前の歌である。皇子が勝間田の池の風趣に感動して、ある婦人に「水影濤々として蓮花灼々たり。可怜断腸、言うことを得べかたず。」
と絶賛したところ、その婦人がこの戯歌を作って吟詠したものという。あまりに手ばなしで絶賛するもので婦人(寵愛の人であろう)が逆に戯れて皮肉ったものであろう。皇子は事実ひげが深ったとも、あるいは無かったともいわれ、また蓮はたとえで、二人の愛情の問題だともいわれる。
その勝間田の池は邸宅からそう遠くないところにあったものであろうが、こんにちどこともわからない。薬師寺では寺の西方の通称七条大池をその池として伝えてきている。薬師寺の前から西に大池がある。池の西側からはすでに当時から建っていた 薬師寺 東塔 西塔 も影をうつし、金堂 東大寺大仏殿 遠くに春日山 高円山  菅原の里とはうってかわった西ノ京の閑雅な風趣が感じられ、このような池ででもあったと思われる。
若草山 高円山

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「狐井と板仏の祭」(きつねいといたぼとけのまつり)

北葛城郡香芝町に狐井という村があります。この村は全般に水が悪かったが、むかし、お宮のほとりに一匹の狐が住んでいて、いつのまにか、この狐の穴から清水がこんこんとわき出してきました。
今もお宮の隅に、この「狐の井戸」があって、清水がわいており、近所の人はこの水を使っています。
狐井という村の名も、この井戸から起こった名です。この狐井の赤土家の庭に、美しい竹が茂っていますが、これはその先祖の方が立てかけておかれた竹の杖が、一夜にして葉が出て根がのびて、竹になったといいます。また狐井のお宮さんは、元はこの赤土家の屋敷の守り神であったといい、この一夜竹の下に大きな石があって、この石の上にまつっていたといわれ、今でもこの石に腰かけたり、よその人がこの竹を切ると腹痛を起こすそうです。



香芝町良福寺の方から流れてきて、狐井の東側を流れている小川を津川といいますが、むかし、あるお婆さんがこの川でせんたくをしていると、池のいで板に描かれた仏さまが流れてきました。たいそうありがたい仏様であったので、狐井の「ドヤマ」の下にまっつたのが七月九日でした。それで、この日は板仏の祭りといい、必ず少しでも雨が降るといわれています。
この板仏は、今はこの村の福応寺にまつられています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「金の茶臼」

宇陀の榛原市からバスで東南へ4㌔、高井から左の方、室生へ通じる山道を1㌔ほどゆくと、赤埴の仏隆寺という古いお寺があります。
室生寺の南門といわれてきたお寺で、ここの宝物として金の茶臼というのがあります。
側面に動物のキリンを彫刻した石の茶臼で、金で破損したところを修理してあり、目方は二十五㌔ほどのものです。
この金の茶臼は、むかし、弘法大師が唐から帰朝されたときに、唐の徳宋皇帝から茶の実といしょにいただいて、持って帰られたものだと伝えています。当時、茶の実も大師手づから寺内にまき付け「こけの国」という茶園になっていたといわれ、いまもこのお寺の付近の山や野には、自生の茶が多いということです。
さて、この茶臼は寛文年間宇陀の松山城主・織田長頼が別荘を建て。茶の湯の会をそたとき、寺から借り受けましたが、鹿のような獣が出て鳴きさわぎ、室の内外をかけ回って器物をこわします。よく調べてみると、茶臼二兆国されたキリンのしわざとわかりました。
それで城主の長頼は大へん立腹して、臼を庭石に投げつけた上、ようやく仏隆寺へかえさせました。金で修理されたきずは、この時のものだといいます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「大野寺の身代り焼地蔵」

近鉄の室生駅を下車すると、南方に彌勒の大石仏のほられてある屏風岩が見えます。
その対岸が大野寺で、ここの堂に身代り焼地蔵さんがまつられてあって、こんな伝説があります。
むかし、大野の郷土という村のさむらい、杉山平左衛門の侍女に、小浪という気だてのやさしい女の人がありますた。いつもこのお地蔵さんを信仰していましたが、ある時、杉山の家が火事で全焼し、それが小浪のしわざであるというけんぎがかかり、小浪は火あぶりの刑に処せられることになりました。
刑場にのぞんだ小浪は一心に地蔵さんを念じて 手を合わせていました。やがて炎々ともえ上がる猛火につつまれ、たちまち、クワッと光が放ったかと思うと、小浪のからだは一変わして、お地蔵さんの姿となりました。それと同時に、はらうか向こうの石の上に、手をあ合わせた小浪の姿が現れました。人々はこのふしぎなできごとにおどろきました。
小浪はその日から頭をまるめて妙悦(みょうえつ)という尼さんになり、一生を感謝念仏に送ったということです。


今もこの小浪がいた悦庵のあとが、この近所に7あるといいます。
また地蔵さんは、その時身代わりになれたので、すこし焼けていられるということです。弘法大師の作られたという立派な仏さんです。