「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「染井戸と糸かけ桜」

当麻町染野の石光寺に染井戸という井戸があります。
中将姫が当麻寺で蓮糸で曼荼羅を織られた時に、ここへ新しい井戸を掘り、蓮糸を五色に染められたのだといいます。それでこの井戸を染井戸といい、この石光寺を染寺ともいいます。そして柿の名も染野(しの)といいます。染野といてシメと読むのはおかしいと思って調べてみますと、ここはもと禁野(しめ)といって、七五三なわを張って神をまつった所ですから、もとは禁野とかいたのですが、中将姫の伝説が生まれてから、禁野は染野のことだろうと思ってまちがったか、そこはよくわかりませんが、いつのころからか染野と書くようになりました。しかしよび方はむかし通りシメとよんでいるので、大へんややこしいことです。
この染野の石光寺の境内に糸かけ桜という桜が一本あります。
むかし、役小角が一本の桜をここへ植え、仏法の盛衰はこの桜の栄枯によって判断されるといわれました。ところがこの桜は年々繁茂して、花が咲いていたので、不朽の桜といわれています。
その後、当麻寺にこられた中将姫が蓮糸曼荼羅を織られた時、菩薩の化身がこの染の井で糸を染め、この桜にかけてほされましたので、それから糸かけ桜と改められたといいます。
また、染野の桜ともいいます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

野々宮天神社

大池北側に「野々宮天神社」が鎮座しています。ここは以前もブログしました。
相撲の祖 垂仁天皇に埴輪を提案し 埴輪作りを最初にし 菅原道真の先祖といわれる 野見宿禰(のみのすくね)と菅原道真が祀られています。 それは神社に掲げられている「額」に表れています。ここから西に 埴輪作りから生まれた 赤膚焼きの窯元があります。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「蓮糸まんだらと当麻れんぞ」

いまの当麻寺一山の本堂を俗に曼荼羅堂といいます。
むかし、中将姫は雲雀山から奈良へ帰られましたが、発心して十九歳の時に当麻寺へ来て弟子入りを願い、名を中将法如尼と改め、一心に修業されました。二十六歳の時、
「世にはほんとうの仏があるならば、この眼前に現われ給え、われ現身の仏を見なければ、この座を立たない」
と、三十七日の願を立てて念仏三昧に入られました。(これは一生けんめいに念仏を申されたということです。)
そうすると、満願の、暁に、ひとりの老尼が現われて、
「われは長谷観音の化身である。生身の仏を拝みたければ、わたしのいうとおりにせよ」
といって、百駄の蓮の茎の糸をとってまんだらを織ることを命じられました。
中将法如尼は時の帝に願いを上げて、近江・大和・河内から百駄の蓮茎を集められました。そしていよいよ蓮茎から糸をとることになると、どこからか前の老尼に手伝われながら織ることになりました。三把の藁に三升(六リットル)の油を注いで灯として、一節竹を軸にして縦笛ともに一丈五尺(四・五メートル)の曼荼羅を織りあげました。
老尼は織り終わると、いなくなったといいます。
織りあげた曼荼羅を本堂にかけて、懸命にいのっておられると、生身の阿弥陀如来と二十五菩薩のお迎えを受けて、中将法如尼は生きながら西方浄土へ旅立たれたといいます。
その有様を再現する会式が毎年五月十四日に行なわれる当麻れんぞで、中将姫が娑婆堂から曼荼羅堂、すなわち極楽の浄土へつれてゆかれる有様を人々に見せてくれるのがあの練供養というものです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

薬師寺周辺 天武神社

写真は古くいものです。
七条大池(勝間田池)南側に天武神社はあります。大池から細い道を南に徒歩2~3分ほど歩いた所に 木の生い茂った中にこじんまりと 手入れされたことが伺える天武神社はあります。天武天皇は薬師寺の発願されましたが 完成を待たず なくなられました。 そこで薬師寺から小高い丘のこの場所で 天武天皇をお祀りされているのではないでしょうか。それをその地の住人方々が守り 祀りつがれてきたのではないでしょうか。

以前のお正月 2年前程です

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「当麻の来迎の松」

当麻寺の仁王門をはいって行きますと、中の坊の前に一本の来迎の松という松の木がありました。
いまは枯れてしまっていますが、その株は小屋を作って保存してあります。
中将姫がおなくなりになる時には、紫の雲がアイタイとしてこの松にかかって、仏さまのお迎えがあったので、この松を来迎の松というのだと伝えています。
また、この松は中将姫が奈良から当麻寺へ来られた時に、記念にと、たもとへ入れて来て、お植えになった松だともいいます。
俳人、松尾芭蕉が、貞享元年にこの寺へお詣りして、この来週の松を見て、
 僧朝顔、いく死かへる 法の松
という俳句を作りました。その前書きに
 「当麻寺へ詣って庭の松を見ると、およそ千年もたったと思われる、大きな牛でもたったと思われる。大きな牛でもかくせるほどの大きさである。この松は人間のような生きものではないが、仏の縁にひかれて、切られることをまぬがれたので、幸いにこんな大きくなったのだろう。尊いというような意味のことを書いています。この仏の縁といったのは、中将姫がなくなられる時に、仏さまが、ご来迎になったという松は、何百年も枯れないで、このくらい大きくなっている。尊いことである。」というようなことです。
芭蕉がこの寺へ来た時にはまだ盛んであった松の木も、その後、枯れてしまって、中の坊の中にある松を第二世としていたので、昭和9年には、その松の木の所へ前の句を刻んだ句句碑を建てられましたが、今はその松の木も枯れてしまいました。それで、この法の松も、やはり死ぬ時があるのです。しかし俳句のような文学や、伝説などは、松よりも長く世に残るものです。
9月21日の当麻寺です