「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から如月のお知らせ

今月のお薦めの本

有名な お水取り の内容が詳しく書かれています。



今月のお休み予定
2月6日(月)7日(火)
  13日(月)14日(火)
  19日(日)20日(月)21日(火)
  27日(月)28日(火)

■住所 630-8053奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8153
■まちライブラリー 参加してます
 私設と図書館的な喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

節分の春日大社の万灯籠

外部資料

春日大社の社伝に神護景雲2年(768)藤原氏が鹿島から武甍槌命(たけみかづちのみこと)香取から経津主命(ふつぬしのみこと)河内から天児屋根命(あめのこやねのみこと)比売神を迎えにここに祀った神社で、藤原氏の氏神である。武人や一般人からの信仰もあつかった春日大社には三千の灯篭がならんでいる。それが二月の節分祭と八月十四、十五の中元疫神祭に一斉に点火される。
現在石灯籠が二千余り 釣り灯籠が千余りある。元禄十五年(1702)の調査の台帳によると合わせて千七百七十八 元治元年(1864)の記録では二千珀五十三基となっており、次第に増加した状況がわかる。最も古いのは木製釣り灯籠 長暦二年(1038)二月、宇治関白藤原頼通の寄進した瑠璃灯籠である。石灯籠では若宮社の南方にする保延三年(1137)六月二日関白藤原忠通の寄進したという柚木(ゆのき)灯籠である。なかには春日講とか藤原講とかの講の組織から献灯したのもあり、また、春日灯籠、御間型(おあいがた)、祓戸型(はらいどがた)などの特徴ある灯籠も多い。
これらの三千の灯籠は、明治維新まで灯明田として千六百五十石の知行があり、灯籠奉行二人、同加役三人のもとに、四十五人がこれを支配した。灯籠の障子は毎年正月前と八朔(陰暦八月一日)前とに張り替える例である。
うっそうと生い茂る老樹のあいだに立ちならぶ古い雅な石灯籠、また朱塗りの回廊に行儀よくならぶ精巧な釣り灯籠が、のこりなく点火された美しさ、ほのかに照り映える社殿の荘厳と相和して、荘厳と優雅な 王朝時代のはなやかさをしのばせる。石灯籠の密集っする南門付近で若宮社に続く御間道の灯の続く様は、神秘的である。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-⒕
■℡  0742-43-8152
■✉  honcafeunon.nara.nisinokyo@gmail.com

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

#若草山の山焼き

この写真は 有名な入江泰吉先生写真集からです。
1960年代のものです。
若草山山焼きの写真は 市街地から 興福寺や薬師寺の塔をシルエットのものがよく知られています。
この写真は頂きから 炎の乱舞がみられます。
奈良の雄大な風景 雄々しい風景 すべて活き活きとして目に入ります。
入江泰吉先生は1992年体調崩しご入院
当時は1月15日に山焼きが行われていました。
その山焼きの様子を気にされ 来年に撮影されるお気持ちのまま 翌日にお亡くなりになりました。
偉大な奈良の写真家です。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-⒕
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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

#興福寺の鬼追い式 節分の夜

外部資料

外部資料

外部資料

外部資料

南都七大寺の一つで法相宗の大本山、興福寺では節分の夜、薬師如来を本尊とする東金堂で午後6時から己がおかした罪を薬師如来に懺悔し、新しい年の幸を祈る薬師悔過法要が行われる。
そのあと鬼追いの儀がある。起源について明らかでなおが、「国文学解釈と鑑真」特別号に発表された年中行事に「享保年間(1716~1736)に中止されたのを昭和27年に再興された」とあるところからすると、江戸時代にはすでに行われていたことがわかる。
当日は市内各町や有志の人々から献じた数十個の大提灯をつるした東金堂の基壇上で行われる。
午後七時、太鼓とほら貝の音につれて六匹の鬼が基壇上に姿を現す。黒鬼が親鬼、青鬼と赤鬼が夫婦の鬼、そして三匹の子鬼の計六匹である。まず仲人によって鬼の親子の盃をすませ、その後鬼達は剣を研き、松明をふりかざして登場する。ほかの鬼どももつづいて基壇上におどり出て、大あばれにあばれまわる。孫鬼もこの間に交じって小走りに走り、時々「やあ、やあ」ときいろい声をあげて走りまわる。暴れるだけ暴れて十数分つづくと、堂内から鋒(ほこ)をもった毘沙門天があらわれて鬼を追う。鬼・毘沙門天・群集が三つ巴となり、この行事は最高潮に達するが、鬼は遂に法力に圧せられて退場する。そこで無事に鬼が退治させられたことを祝っておめでたい大黒天が登場して、打出の小槌をふりながら歩きまわる。その後、五重塔や東金堂前の花の松の下に待ちかまえた上下(かみしも)姿の年男が「福はうち、鬼はそと」と叫びながら福豆やボールを投げる。群集はこれを得ようと競い合う。


本年はコロナ対応策をおこなって行事は行われます
HPなどで調べてください。


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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

#節分 法隆寺 西円堂の鬼追い式

外部資料 西円堂

外部資料

外部資料

法隆寺では1月1日から⒕日にかけて、金堂で吉祥悔過による修正会があおこなわれるが、2月には西円堂で、1日から3日にかけて国家の安泰と五穀豊作を祈願する修二会が行われ、3日の結願の夜鬼追いの式がある。
西円堂は光明皇后の御母は、橘夫人の本願により養老2年(718)に創建された円堂で、本尊として行基菩薩奉彫と伝える丈六の薬師如来をまつっている。古くから現生利益の如来として信仰が厚く堂内には多数の剣や鏡などが奉納されてあった。
現在法隆寺に残っている『寺要日記』にこの鬼追い式は弘長元年(1261)2月にはじめて行われたことが書かれ、さらに修二会の条に
「諸荘厳餅配分事 堂司大ノ時ノ代官加定 参籠衆五十人、筆師一人、鬼三人、毘沙門一人、年行事二人巳上五八口、御行畢賦リテ御太鼓学衆方末ヨリ六人ハ金剛鈴振形、第七藤太鼓打役、乱声七度之後、鬼三人、毘沙門天(一躰鉾持)堂内二人テ三遍走廻テ出堂、庵室ヨリ出作在之」
昔は堂内で鬼役も同僧によって行われたが、享保の頃(1716ー1736)から斑鳩町岡村大字の人々が勤めるようになった。
鬼に出る人々は一か月前から精進にはいるが、鬼追いは三日の結願の作法が終わった午後七時ごろからおこなわれる。まず黒衣をつけた者が太鼓をうち、他のものは机に腰をかけて加持杖を持ち、金剛鈴かまたは錫杖をふる。このように堂内の鐘・太鼓を乱打すること七度半、これが終わると黒・青・赤の鬼と毘沙門天が古式な服装で羅生門から松明をもって円堂外の壇上につぎつぎと現れる。
まず黒鬼(父鬼)が斧をかついで現れ、斧をといた後、沙主(さず)役から松明をもらい、これを振りかざし円堂外の壇にあらわれると、群集は口々に「こら鬼」「松明こっちへほれ」などと叫ぶ。鬼はますますいきりたって群集をぐっとにらみ松明をひゅうとなげる。群集はあげて逃げまわる。次に青鬼(母鬼)が鉄棒と松明を持って登場、黒鬼と同様、群集めがけて松明をなげる。次に赤鬼(子鬼)は剣と松明を持ってあらわれ、親鬼にならって松明を投じる。その後、毘沙門天が鉾を持って登場し、身振りがおかしくふるまいながら堂を一周してこの行事は終わる。


今年はコロナで中止と出てます。

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