「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

江包・大西のお綱祭り
雄綱と雌綱の入船の式、これを俗に「お綱の嫁入り」といわれている。

外部資料

外部資料お

この綱掛け神事は江包と大西の二大村人によって二月十一日江包の素盞鳴神社の境内で厳かに執行される。日本古式の姿を今に伝える猟奇的な原紙神事である。大西の市杵島神社ぼ末社に稲田姫命をまつる御綱神社がある。お綱祭りは稲田姫命が江包の素盞鳴尊と夫婦の契りを結ぶ神事で、大西から雄綱 江包から雌綱をかつぎ出して祭りを行うのである。
十日午後に大西の御綱神社の拝殿に村人が男一人新ワラ十二把をくくり、一束ずつ持ちより舟形の雄綱をつくる。長さ5.7メートルまわり2.7メートル重さ600kg 綱のまわりに撚縄を一面につけ長さ十メートルの巻綱をつける。これを恵方に向け神灯をあげる。その前日の九日江包では同じく各戸から男一名新ワラ十二把くくり二束ずつ持ち寄り、春日神社の境内で雄綱をつくる。綱の頭は直径二メートルの紡錐形にし、だんだん根本を細くして長さ約4メートルにし、これを三本の巻縄をつくる。長さ九十めーとる 重さ六百キログラム頭を年の明きの方に向け安置しておく。これを「ねやしておく」という。
十一日午前九時、大西では御綱神社で「お綱の出船の式」を行う。献饌・祝詞奏上があって雌綱は村人にかつがれてまずおめでたの有った家々にお祝いにまわり、小字長谷田の田でおろして巻綱でドクロをまいた姿にしておいて、人々が「祝たろ」といって相撲をとったりしてドロンコになりグロテスクな動作がはげしいほどその年は豊年だという。それからまたかついで練っていく。前河原でもう一度おろして泥相撲をする。そしてこの神事の媒介役を司る同大字の人を先頭に神職・大字役員達が紋姿で「きょうはお綱はんの嫁入りや、めでたい」といって正午すぎ江包の素盞鳴神社へ到着する。雌綱の尾を前の向かって左の古木の二又にかける。江包では雄綱を大字の中央にかつぎ出し、過去一年間におめでたのあった家へ祝意を表してまわる。一度もとの春日神社へもどって祝酒をいただだく。再びかつぎ出して村をまわり、前河原でおろして泥田で相撲をとり泥人形のようになる。この時、媒介役の古式に則る「七度半」の呼び使いがすむと威勢よく素盞鳴神社へ向かい、右側の大木に綱の尾をかけ両方の綱を結び合う。更に雄綱の尾は東の榎につりあげる。この綱の下で「シャンシャン、モウ一ッマケテ、オシャシャンノシャン」と手打ち式をしてから神前で祭典がある。これを入船の式という。献饌の中にヒネリ御供がある。祝詞奏上して子孫繁栄・五穀豊穣を祈願する。ヒネリ御供は洗米を白紙に包んでひねったもので、あとで江包の各戸に配る。今は穴師神社の神職が斎王となっているが、もと大神神社の神職が来ていた。同社の郷中の関係もあり、記録によると大同四年(八0九)まで大神神社の境内にまつられていたのが同年初瀬川の洪水で流されてここに祀ったという。



■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-⒕
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

#神社の砂掛け祭り

外部資料


廣瀬神社は崇神天皇のころの創建と伝え、祭神は和加宇加乃売命である。竜田神社は風の神とし、廣瀬神社は水の神として、尊信されて来た大和の古社である。鎮座の地河合町川合は大和川が合流する地点であり、本社はこの地方即ち廣瀬郷社であり、明治になってから官幣大社に列していた。
水の神様として五穀豊穣を祈る神さまだから、本社のお田植祭は、古くは大和六つ県(あがた)の神主がこの祭りに参加したと伝えられるくらい、重大視されており、官幣大社時代には春の列祭と秋の祭りと、この2月12日のお田植祭には勅使がたった。今でもこの社としてはこの祭りが最も大きい祭りである。
祭典は午前11時ごろ本殿においてとり行なわれるが、拝殿の両側には遠くから来た廣瀬講の人々や近隣からの参拝者が詰めかけている。この祭典の中で、拝殿の中央において氏子の青年が奉仕する水干を着た田人が現れて、苗代作りの所作ごとをする。これはどこのおん田でも行うようなことである。最後に「福種を播こう」といってシメを張った桝からからモミを播いてしまうと緋の袴に緋めたすきをかけた早乙女が二人、松葉で作った松苗をもって、早苗をとる所作をする。その時、「この苗はわがにはあらず廣瀬なる神のよさせし早苗なり」と歌う。
そこまでは殿上の儀というが、ここで休憩ということになり、午後は二時になってから、拝殿前の広場にしつらえた斎田において庭上の儀が行われる。一面の砂庭のまん中に五メートルに四方ほどを斎田とし、四方に青竹を立て、西北に入り口を作ってある。そのころになると参拝者も多くなって、広庭一ぱいになっている。太鼓がなると殿上で奉仕した田人がやって来て、まず模型の鋤をもって斎田の溝をすく所作をするが、待ちかまえていた子供たちは、この時、砂をつかんで四方から田人に向かってなげつける。田人もまたこの鋤をもって参拝の衆眺に砂をかけまわる。うっかり見物もしていられない。全く砂合戦のようなもので、砂掛け祭りの名にふさわしい行事である。田人が出てしまうとこれで第一回は終わるのだが、次には田人と牛の面をかむった牛が出て来てカラスキで田おしをする所作にかっかると、また砂をかけ合う。終わりにはマグワで田をならす所作をするが、これまた砂をかけ合って、みんな砂まみれになる。この砂は雨になぞらえているので、多く砂をかけるほど雨がよく降ると考えられている。このあとで、早乙女のお田植えがあって終わり、あとで松苗と御供まきをする。
■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

#大神神社のおんだ祭 2月6日

外部資料
もともとは正月卯の日に行われていたが明治になって旧正月6日となり、更に新暦の2月6日に改められた。同社の『神事勤行日記』(明治3年=1870)には正月9日惣番・今月卯之二値二付御田也」とあって御田(おんだ)の呼び名で伝ているが御田植祭のことで、年の初めに五穀の豊穣を祈る重要な祭典の一つである。
当日は早朝に籾種・苗松・御鈴・斎鍬一丁・錬棒一つ・牛形一面・苧(かなびき)などを拝殿の御棚の上に安置する。籾種は三宝にもり、苗松は三輪山の若枝を三本合わせてワラでくくる。牛形は先端で二本の枝が出て角のようになった長さ1、2メートル(4尺)あまりの自然木にサラシ木綿のツナをつける。角には赤の布をつける。斎鍬は木製の実物大で鍬の先は黒く塗ってある。錬棒はナラシ棒のことで長さ1,5メートル(約5尺)に近い竹筒で太さは直径十センチ(約4寸)ある。
午前10時、神鼓を合図に斎館から拝殿に参進して来た宮司以下の神職が、修祓・献饌・祝詞秦上まですむと、拝殿向拝の間を田になぞらえ、拝殿南側に着座している鳥帽子に白丁姿の田作男が一人、拝殿御棚の上の苧をとって神前で拝礼ののち、これをタスキにかけ、ついで斎鍬を持ち出し神田に擬した拝殿向拝中央に来て、先ずアゼの草けずり、アゼ草取り、アゼこねをするまねをし、最中に足のヒルをとるまねをする。斎鍬をもとの所へもどしてから、アゼにすわってキセルを出してタバコを一服すう。それから牛を迎えにゆく。「モーモー」と牛形が元気よくあらわれる。牛形にサラシ木綿で頭をしぼってそのはしを右手にとり、左手で牛形の尻を持ち上げ牛使いのまねをして「今の牛は若牛で、ようホエルホタエル」といってその牛形を何べんも倒して牛が暴れている所作をし牛耕をくりかえす。牛形をもとの位置にもどしてから田作男の朝のお茶の食事がはじまり、黒くなった茶瓶の口から茶湯をのむまねをする。
次に斎鍬と錬棒と取り替えて田ならし、あぜつくり・水口つくりの所作をする。こうして田作男の種々の農作の行為によって神に棒ぐる形なき苗代ができあがると、権宮司が三宝に乗せて神前に奉納した籾種を御棚に移し祢宜はこれを田作男に捧げる。田作男はそれを棒持し、片手で腰にさした扇をひろげ
「若苗とりて、おなごの手をとる。右手をとるやら、左手をとるやら、京から下る、藤室の稲は、稲三把とやら米八合、吾田に咲いたりや、咲いたりや、三輪へ参ろ」と神楽歌をうたって神田を左から三週する。
「よい種まいて、よい米とれよ」と籾まき歌をうたいつつ籾種を神田になぞらえた床の上にバラバラとまく。この時、早乙女が太鼓を乱打する。田作男は
「東八百、西八百 合わせて千六百」といいつつ腰の日の丸扇をとって「みかんじゅう(巫女のこと)」というと紫のタスキの赤のタスキをかけた舞衣装の二人の早乙女が両手に大きい苗松を一本ずつ持って出て来て苗取り・田植えのしぐさを奉仕する。この間、他の早乙女が太鼓を打つ。次に鈴を手にして鈴神楽を舞う。つづいて拝殿で「奇し魂(くしみたま)の舞」を行う。
次に宮司の玉串拝礼・権宮司以下の列拝があって祭典がおわり、拝殿前に雲集した参拝者に籾種を頭上にまく。「まこうよ、まこうよ、よい種まこうよ、白銀黄金の種まこうよ」と田作男が歌う。
この日は豊年講の春の大祭もあるので、全国から講員が参集する。六、七千本の苗松を参拝者に授与し、農家はこれを苗代の水口にさして稲の豊作を祈るのである。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡ 0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

手向山神社のお田植え祭り 節分の日

外部資料

外部資料
手向山神社では節分の日の午前11時から拝殿でお田植祭が行われる。能楽の形式で行われ 古式な行事で、民俗の上では貴重な祭典といわれている。
当日は本祭りに使用される御幣をつけたっ笹竹を先頭に巫女 牛に扮した牛子童 田主 神官 白丁をつけた地謡の人々の順で、「西の山に青い雲のさし出たはあの地かや、この地かや」「いかに殿原」などといいながら境内を一周した後、拝殿に上がり、田主が御幣をあぜに立て、水口祭りをすませた後、田主が神前に向かって「今日は幾日の足る日の吉日なれば、クワ初めをせばやと存じ候」とうたうと地方は「めでとう候」とまずクワで苗代の土を耕す。その後、牛に扮し水干をつけた牛童が出てスキを引き回す。田主は「おんじょがしょうしょうのべべおり、おんじょがしょうしょうのべべおり」とうたいながら牛をおう。この間地方は「せざいが子にもたろけり」とうたう。二回拝殿をまわって牛つかいは終わる。次にえぶりを三回使った後、肥えをおく作業にうつり、それがすむと種まきとなる。田主が「稲の種をまこうよ」と和し、田主、物に入れた糯米と鏡餅を四角に小さく切ったもの(俗にキリコという)を拝殿にまく。田主は「東田へまこうよ 西田へまこうよ 南田へまこうよ 北田へまこうよ 川上田へまこうよ 日本国まこうよ」とうたうと、地方は「福の種まこうよ」とうたう。これが終わると田主が手すきを肩にして苗代を見てまわる。苗が大きくなっているのを見て田主「見回りて候へばつばめになって候」とうたいながら拝殿を一周し、さらに扇をもった手を腰にあて、神殿を拝し「見回り候へば竹になって候」とうたう。
田主はさらに「見回って候、早乙女を招じ申し候」とうたえば、地方は「めでとう候」とうたう。田主は「東の国より八百人 西の国より八百人、南の国より八百人、北の国より八百人 あわせて三千二百人の早乙女を招じ申し候」地方「めでおう候」とうたう。その間、巫女は神前に松苗を捧げる。地方「おびくつろぐうなじなまめく」田主「大行じ(サイマワシ)をふたつならべて」地方「いずれとによう」田主「香りをよしとにおう」とうたってお田植えの儀は終わる。
その後、神前に供えた松苗は参拝者や氏子の農家に分配される。
このお田植祭がほかのお田植と異なっているのは能楽の形式をとっていることと、田主が翁の面を着していることで、寛永十九年(1643)の火災で書類など消失したが、その後同社に伝わる『お田植式次第』(江戸時代の後期)に同様の用具などが使用されたことが明記されている。
この神社は中殿に応神天皇、佐殿に仲哀天皇 神功皇后をまつる。なおこの神社には正長元年(1428)修理の銘のある鳳輦や、舞楽面 黒馬の絵馬などが保存されている。
その他、おんだ祭は県下の各地でおこなわれている。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-⒕
■℡ 0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から如月のお知らせ

今月のお薦めの本

有名な お水取り の内容が詳しく書かれています。



今月のお休み予定
2月6日(月)7日(火)
  13日(月)14日(火)
  19日(日)20日(月)21日(火)
  27日(月)28日(火)

■住所 630-8053奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8153
■まちライブラリー 参加してます
 私設と図書館的な喫茶店