「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

五條には「天誅組の変」という幕末の尊攘派の志士たちによっておこさあれた事件がある。徳川から明治に代わる 熱き思いの初まりの地ではないかと思います。
その五條に伝わる話を紹介しています。
「五條のむかし話」から
「井上内親王」
私は、近ごろになって 毎晩のように 母に おとぎばなしをせがんだ遠い昔を思い出します。母は そのたびに
「きょうは 何の話をしようかね。」
そういいながら 五つ 六つしか持ち合わさない 昔話の 一つか二つを選んで 聞かせてくれたものでした。
ちょうど 小学校へあがるころだったと思います。ふと
「なんで みんな うちのことを 和所(わしょう)とよぶの。」
と いった私に 母は
「毎晩 同じ話だから 今夜はひとつ 和所という 屋号の由来と、いい出したものです。
私の家の苗字は 桜井なのに どうして近所の人々が 「和所」とか 「和所の桜井」とか呼ぶんだろう。ーという疑問はありましたが 小さいころから 聞くきなれていたためか 
それが あたりまえのことと 別に気にもしていなかったのです。

「配所(はいしょ)の月」
そいうって 母は しばらく 遠くを見つめているようでしたが、いつものように ポツリ ポツリ 話し出しました。
「おぼえているやろ 太宰府に流された 天神様のお話を。」
私は、まくらをうごかさずに うなずいたものでした。
「その天神様 すがわらみちざね公みたいに 流されて この五條の地でなくなられた 皇后様がおられてな-」
話は、しんみりして参りました。
「その方はな 光仁天皇のおくさきで 井上内親王と申されたのや そのころ、天皇のそば近くにつかえてい人がな 天皇さまに
『皇后さまを そばにおくのはよくない』となんども 申し出たのや 天皇さまもな はじめのうちは 『そんな』と思っていたけど そのうちに『そうやなあー』と思うようになられたようや。」
「それでな、子どもの 他部(おさべ)親王をつれられて この五條へながされておいでになったんやと、その途中 帯解の おじぞうさまにおまいりなされて 『安産を守らせたまえ』と おいのりなさって こられたんだと、皇后さまは、おなかが 大きかったんやそうな。」
「ふーん 赤ちゃんが おなかにいたんやな-。それで。」
「それで、五條に来てから 赤ちゃんを おうみなされたのや。皇后さまが赤ちゃんを おうみになさるときなー うちの先祖が いっしょうけんめい おたすけ申し上げたそうな、そして玉のような 男の子が 生まれられて その名を 雷神王と申されたそうや。赤ちゃんが 生まれなさるとき 産湯を たくさんわかしてなー その時 使った釜をうめたので
その土地を、釜窪(かまくぼ)と名づけたのやそうな。」
「釜窪ってなー。」
「そうや 近くにある 釜窪のことや。」
「ところがなー この土地に 四年ほどおられて 皇后さまは おなくなりになり その次の年には 他部親王もなくなれあれてなー ごいがい」(死体)を 阪合部大野の御廟山へ
お送り申し上げたそうな。-」
ジーンと 涙の出そうな お話でした。
しばらく だまっていたははは また 語りつづけてくれました。
「ちょうど 雷神王さまが 七才になられたときになー おかあさん 兄さんのことを 聞かれたそうな。雷神王さまは たいへん憤慨されて 食事もせず夜もねないで「母上の疑いがはれますように」と祈られ 雷神となって 天皇さまのいる都にあらわれたんだと それで、都はものすごい暴風雨につつまれ、雷が鳴りわたり 人々何事だろうと おそれ おののいたそうや。」
「そのうちにな 疑いがはれて天皇のおおせで この五條の地に、神殿が建てられたんだと、そして そこに み霊が 安置されて ご神号がおくられたんやって、それから その所の名を霊安寺とつけられたということや。」
まだ ねむりに入らぬ私のために 話はつづけられました。
「あ、そうそう それからな 早良親王とおしゃるかたもな、別のおとめで 淡路の国へ流されたのや お父上は 光仁天皇母上が ちがったそうや、淡路へ流される途中、食物をたべないでがんばり なくなられたそうや それで この親王さまも、五條にごいしょに まつられてあるんやで。」

×

非ログインユーザーとして返信する