「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 薬師寺のお話

薬師寺 夢のおつげと塔

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西ノ京。かつての朱雀大路で区切られた平城京の西半分を、西ノ京と呼んだことから、この名は起こりました。薬師寺・唐招提寺・秋篠寺・法華寺などの寺々がこの地を彩っていますが、なんといっても西の京のシンボルと言えるのは、薬師寺の東塔です。
「凍れる音楽」とたたえられる薬師寺東塔。これは730年ごろの建立で、十六世紀の薬師寺の大火災のも焼失をまぬがれ、創建当初の姿を今に伝える、ただひとつの建造物なのです。塔は一見すると六層にみえますが、それは各層の下にモコシと呼ばれる小屋根がついているためで、本当は三層です。
この塔は「竜宮の塔のうつし」だといいます。
昔、ある工匠の夢に、天竺から渡ってきた薬師如来が現れ、塔の建立を命じました。それから工匠は、毎日図面を引いて苦心しましたが、どうしてもうまくいきません。するとまた夢のお告げがあり、竜宮城内の立派な塔を見ることができました。工匠はその形を写しとり、薬師寺の東塔を完成したのだということです。

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塔の上部の水煙と天上の楽をかなでる乙女。それはまた、深い海の底の竜宮の楽をかなでる姿でもあるのでしょうか。

薬師寺は幼いころから馴れ親しんだお寺です。
当時は西塔はまだ再建されず 伽藍も金堂もなく 寂しいお寺でした。
が修学旅行の生徒さんたちが多くこられていたように記憶しています。私達は 学校帰りに立ち寄り遊んでいたことを記憶していす。ランドセルを背負った小学生が境内を走りまわり
東塔の石段を滑り台にして遊んだりしていました。
その中で 修学旅行の生徒さんに 若い僧侶お方がお寺のお話をされているのを 後ろで聞いていたこともあります。そのお話は、子供にも分かりやすく 笑いが出るような楽しいものでした。

■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 法華寺のお話

法華寺  十一面観音と光明皇后


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平城京の左京一条二坊の地に位置している、法華寺。正しくは法華減罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、門跡尼寺(代々皇族が摂家の女性を門跡として迎える、格式の高い尼寺)として知られています。この寺は天平十九年、光明皇后の創建になるもので、皇后ご自身、夫の聖武天皇没後はここにお住まいになりました。そして法華寺の本尊・十一面観音は光明皇后のお姿をうつしたものといわれ、次のような伝説があります。
昔、天竺(インド)に熱烈な仏教の信者であるケンショー王という王様がいました。王は、生身の観音を一度拝みたいものと、つねづね、思っていました。ある日のこと、王は「東方の日本という国に光明皇后という観音がいる」という天の声をきいた


のです。王はすぐにでも会いたいと思いましたが、国を留守にができません。そこで王は、問答師(もんとうし)という仏師を日本につかわしました。光明皇后のお姿を、像に彫って持ち帰るように命じたのです。問答師に会った光明皇后は、興福寺の西金堂の本尊を刻んでくれるならということを条件に、モデルになることを承知しました。


そのころ、法華寺と東大寺の間には、十八丁もの長い廊下が続いていました。その途中には、興福寺の蓮の池があったといいます。そして問答師は、興福寺の蓮池の中を歩いている光明皇后の十一面観音に彫りあげました。それで法華寺の十一面観音は、蓮の後背をつけておられるのです。

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問答師はこの像を三体作りました。一体は宮中に献上され法華寺へ、もう一体は天竺の王のもとへ、持ち帰りましたが、残る一体のゆくえはわかりません。


この話を伝え聞かれたインドの故ネール首相は、昭和32年(1957年)の訪日のおり、非公式に法華寺に参詣されました。そして十一面観音を拝み、故国の仏像とのあまりの相似に、驚かれたということです。
このような伝説が残っているのも、光明皇后のたいへん慈悲深いお人柄のせいでしょう。一般の貧しい人々が悪病に苦しんでいるのを見て、一千人の病人を助けようと願をかけてからふろ(薬草をたいてその湯気を体にあてる治療用の風呂)に入れ、ライを病んだ一千人の目の患者に対しては、体中にういた膿を自らの口で吸いとろうとした。・・・光明皇后に関しては、こんな話さえ残っているのです。


光明皇后がお住まいになった時、法華寺は女人成仏の道場として栄えました。そして皇后をしたって入寺を求める高貴な姫たちが、数百人も訪れたといいます。

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 新薬師寺のお話

新薬師寺 (釣鐘のいわれと不思議なご利益)

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境内を埋める萩と十二神将とで有名な新薬師寺には、重要文化財の鐘楼があります。そこには千百年ぐらい前の古い鐘楼がかかっており、「日本霊異記」の中に、こんな話が伝えられています。
敏達天皇の御世(572~585)のこと、都の近くの百姓に一人の男の子が生まれました。長ずるにつれてその子はものすごく大きくなあり、歩くたびに足の下の土があ二寸もへこむくらいになりました。大力なことは言うまでもありません。これでは百姓にもできないので、父親はその子を元興寺の小僧にしてもらいました。
調度そのころ、元興寺の鐘楼には毎夜のごとく鬼が出て、附近の人々を困らせていました。これを聞いた大力の小僧は、今こそ自分の力を用いて人々を救おうと、鬼に決闘を申しこみました。決闘の場所は鐘楼の上です。
そして夜中の一時・・・二時。ミシリミシリと音をたてて、鬼が現れました。毛をさかだてた鬼と小僧は、向かいあうこと数十分。いずれがスキをみつけらか、「エイ!」とかけ声も鋭く大格闘になりました。組んずほぐれつで鐘楼のふちを回ること数十周、さすがの鬼もかなわじとみたか、鐘楼を飛び降りて一目散に北の方角へ逃げ出しました。小僧も必死であとを追いましたが、なにしろ深夜のこと、ついに鬼の姿を見失ってしまいました。

この鬼の姿を見失った場所を今は不審ヶ辻子町(ふしんがつじちょう)といい、鬼の隠れた山を鬼隠山(きおんざん 今の奈良ホテルのたっている山)といいます。鐘楼は、その後、元興寺の鐘楼が焼けたので、今は新薬師寺の鐘楼にかかっているのです。鐘の周囲には、格闘の時にできた鬼の爪痕だという傷が、無数に残っています。そして、その勇敢な大力の小僧は、のちに道場法師という高僧になりました。
また新薬師寺は、ふしぎなご利益のある寺でもあります。
境内の二つの小さな池に鯉を放すと、鯉が身代わりに眼病や耳病を患い、放した人の病気がなおると言われます。また眼病・耳病の平癒を祈願する人が、本堂に奉納してある錐をたばって帰り(たばるとは、有難く頂戴すること)、薬師如来御真言を唱えながら患部をつくまねをすると、望みがなえられるそうです。そして地蔵堂の中には、紙貼地蔵(かみよりじぞう)という地蔵さんがあって、小さな紙切れを水につけこの地蔵さんの患部と同じ箇所にはりつけて祈願すると、霊験があらたかだといいます。それでその地蔵さんはいつも体中に紙を貼られておいでです。

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 岩船寺のお話

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岩船寺  子供と紫陽花 縁結び
細い道わきに、ビニールの袋がつり下げられています。袋の中身はお芋・豆・カボチャ・トマト」などの野菜。季節によって種類が変わります。百円・二百円と書いた札がついていて、その横にお金を入れるための竹筒。皆がほんとうに代金ををはらうかどうか、見張るための人影は、どこにも見当たりません。そんなのどかで心優しい山里の中に、岩船寺はあります。
岩船寺は奈良県にはなく、正確にいうと、京都府相楽郡にあります。しかし、奈良からとても近い距離なので、大和路の古寺として親しまれています。
岩船寺の境内には、たくさんの紫陽花が植わっています。梅雨のころ、しとしと降り続く長雨に濡れた紫陽花と古寺のおもむきは、訪れる人の心をとらえて放しません。


さて、岩船寺の石段の上には、白山神社があります。白山神社は、岩船寺の伽藍守護のためにつくられた神社で、天平元年七月、柿の本二丸に宣下社殿をつくらしめ、僧行基がイザナミノミコトを勤請したと伝えられています。
その後ずっと、白山神社は附近の人々の氏神として崇拝されていますが、イザナミノミコトが女神であるために、特に子供に対する愛情が深いといわれています。その守護で、この附近の子どもはみな健やかに生れると言われており、噂を聞いて、最近


は若い夫婦の参詣が増えました。その中には、岩船寺の山門の下にある石風呂、現在は水や湯を入れていない空の風呂に入って、身を浄めてお参りする人もいます。
また、なかなか良縁にめぐまれぬ人は、三重塔隣の聖天さまへ祈願することになっているそうです。「おかげさまでいい人にめぐり会いました。」というお礼の手紙が岩船寺の社務所に届くということで、そのお力はたいしたもの。聖天様の本殿は、白山神社のもとの社伝を改築した古い建物です。

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 浄瑠璃寺のお話

浄瑠璃寺 阿弥陀仏がいざなう浄土の世界 京都府相楽郡

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誰だったのでしょうか。「日本人は悲しい時に寺へ行き、何かを決着する時に時に神社へ行く」といったのは、日本における宗教の雑居性と信仰心の薄さを、この言葉はみごとに言いあてているようです。キリスト教徒でもない男女が、ムードに惹かれて教会の神の前で結婚式をあげ、仏壇の展示場に集まる人々は、自分の先祖をまつることしか考えない。こんな世の中だから、古い寺々を訪ねる私たちは、堂塔伽藍や仏像、その外形にのみ心を奪われがち。けれでも大切なのはその奥にある心、つまり、「これらは何故つくられているのか」といゆことです。
浄瑠璃寺(九体寺)は、治承二年(1047)、現在は三重塔のうちにある薬師如来を本尊として出発しています。1107年には、新しい本堂として九体阿弥陀堂が建立されました。

1150年には、僧惠信により、現在の寺観の基礎ができあがっています。そして藤原から鎌倉時代にかけ、堂塔・仏像などが次々とつくられていきました。この寺の第一の特色は、現存する唯一のもである九体阿弥陀仏と、それをまつる九体阿弥陀堂にあるようです。
古いお寺を巡礼すると、その中心となるお堂は原則として南面しています。しかしこの九体阿弥陀堂は東に面し、前には池があります。つまり私たちは、ある時は池の静かな面をはさみ、西の方角へ向かって仏さまを拝むことになるのです。
西方浄土という言葉があります。仏像の教え東西は需要な意味をもちます。東はものごとの出発点を示し、西は求めて行く未来の方向を表のです。出発点(東)にある私たちが、目ざすべき理想の浄土(西)を見つめ、そこには私たちを出迎えてくれる九体の阿弥陀仏がおられる。
どう生きるべきか。自分にとっての浄土、自分にとって理想の世界とは何か。オレンジの空、流れる白い雲・・・。夕映えの西空を背にするお堂を前に、一人ひとりが考えてみたいものです。

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