「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 奈良の民話

こんばんは 本日から 「奈良の民話」を紹介させて頂きます。
各地域に伝わるお話です。


ヒチコとハチコの伊勢詣り  北葛城郡
むかし むかし、あるところーに、ヒチコとハチコという男がよってなあ、このふたりは空を飛ぶことができてんとー。
ある日ふたりは相談して、
「一っぺん、伊勢まいりましょうか」
「せやな、いこうか。せやけどこんなふうでは、みっともないし、どうねんしょ」
いろいろ相談してから、一、二の三で、パッと飛び上がって
「呉服屋のカドへと、ヘチャラカーチャンのオドルイのルイ」

そういうて、呉服屋の前へポンと、降りよってんとー。
「こんにちは、いちばん上等の着物と羽織と、それからじゅばんと、バッチ、羽二重のㇸコ帯と足袋まで、ふた通りそろえて、はよだしてんか」
大きな声で、そういうて注文しよたんで呉服屋の亭主は、
「こりゃ、えらいお客が来てくれた。」
「へいへい。よろしはす、オーイ番頭はん、いちばん上等の着物と羽織、じゅばんにバッチ、羽二重のヘコ帯から足袋まで、そろえて、はよだせ、はよだせ」
さっそく、そろえてだささはってんとー。
ふたりは、
「ちょっと着てみまっさ」
そういうて、さっそく着物をきて、ヘコ帯をしめて、足袋もはいて、
「どうだす、よう似合あいまっしゃろ」
ふたりは得意になってみせやんので、亭主もちょうしにのって、
「へいへい、なかなかええ男だす。いっぺんに男まえあがらはりましたなあ」
亭主がほめてやると、ヒチコとハチコが、
「あー、エライコッチャ、ションベンしとなったあ、はばかりどこだっか、おしえておくれなはれ」
そういうて、どんどん飛んでいってしまいよってなあ。
呉服屋の亭主はカンカンに腹をたてやってんけど、どうしょうもないし、盗人にでもおうたと思って、あきらめやってんとー。
それから、ヒチコとハチコは、こんどは、
「下駄屋のカドへと、ヘッチャラカーチャンのオドルイのルイ」
そういうて、下駄屋の前へ、ボンと降りよってんがなあー。
「こんにちはー、いちばん上等の桐の下駄、二足揃えて出しとくなはれ」
そういうて、はいりょよったさかい、下駄屋の主人は、エエ着物きた ええお客さんや思って、いちばん上等の桐の下駄を二足、出してきやてんがなあ。
ふたりは、さっそく履いて見せて、
「よう似合いまっか」
そういってから、
「あーエライチャ、ションベンしとうなった、ハバカリどこだんのや」
いまにも小便でそうなかっこうするもんやで、下駄屋の主人が裏の便所へ案内しやったら、ふたりh、主人のもどるのをみはかろうて、
「このへんで一、二の三」
ポンと空へ飛び上がってしもたがな。
下駄屋の主人が、あんまりおそいんで、便所へ見にいかったら、ふたりは、フーワ フーワと空を飛んでいっこるよって、
「アノー、お客はん、今の下駄代、はよはろてんかー」
大声で、どやがってんけど、ふたりは、
「あとは、シリクライカンノンヤ、ボー」
と、いいながら、飛んでいってしまいよってんとー。
ほいで、こんどは、
「帽子屋のカドへと、ヘッチャカーチャンのオドルイのルイ」
と、いうて、帽子屋の店先へおりて、
「一番恰好ええ、ラシャの中折帽子を二つ、おくんなはらんか」
そういうて、上等の帽子を出してもろうて、そのシャッポんをかぶって見せて、
「あー、ションベンしとうなりましてん、はばかり、どこだったとー」
そういうて、便所に案内してもろて、亭主があっちにいったのをみはかろうて、
「一、二の三、ボー」
でw、飛ばってんとー。
帽子屋の主人が、見にいかがったら、ふたりはもう空を飛んでいくので、ヤイヤイいううて、どやがってんけど、
「mあとは、シリクライカンノヤ、ボー」
と、いってしまいよってんとー。
なにもかも装束がそろうたんで、いよいよお伊勢さんへ、まいることが、できてんとー。
お伊勢さんについたら、いろいろの店やが出ていて、方々見てまわってやったら、大きな声で、
「イタチ- イタチ―」
と、いうてやんので、入って見てみやったら、板に赤い色粉を流して見せてやってんどー。
ちょっと向こうへ行ってみやったら、
「鏡所」と書いた立て札があってんとー
それを、ふたりは、
「カカ、ミドコロ」
と読まってんとー。
そいで、
「コリャ面白い、カカァ見せよるのやてえ、入って見よやないか」
そういうて、入っていかってんとー。そいで、ちょっといかったら、
「琴 三味線」
とかいたってんとー。ふたりは、それを、
「今年見セン」
と、詠んだもんやさかい、
「今年は見せよらひんねとー」
そういうて、出てきてw、帰りに、なんでも、願いごとをかなえるという、大きな天狗のウチワを買うて帰たってんとー。
ふたりが空を飛んで帰らんのを、よその娘さんが、櫺子のすきまから見つけて、
「やあ、あんなとこ、人が飛んでやるー」
と大きな声で、笑うようにいうてやんのを見たヒチコとハチコが、
「あんなとこに、娘さんがのぞいとる。このウチワで、ひとつためしたろ」
そういうて、
「あの娘さんの鼻、高うなれ、あの娘はんの鼻、高うなれ」
そういうて、天狗のウチワで、あおぎゃってんとー。
ほんだら、娘さんの鼻が、ずんずん高くうなって、櫺子から外へとび出してしもうてんとー。どうすることもできやひんので、娘さんは泣くやら、わめくやら、家の人たちも心配して、ヤイヤイいいながら、空へ向かって、
「オーイオーイ、空を飛んでいるお二人さん、たのみます。どうか、たすけてやっとくなはれ、お礼はなんぼでもしまっさかい、たのみます、たのみまっさー」
と、いうて、どやぎゃてんとー、へチャラカーチャンのオドルイのルイ」
と、いうておりやってなあー。
「娘さんの鼻低うなれ、娘さんの鼻低うなれ」
というて、ウチワであぶっちゃたら、娘さんの鼻が、みるみる低うなって、もとのような鼻になってんとー。
娘さんも、家の人々も、たいそうよろこんで、ごちそうしたり、お礼のお金を出したり視野ってんとー。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 東大寺のお話

東大寺  二月堂 青衣の女人と良弁杉


「お水とりが終わると春が来る。」関西の人々は、昔からこう言い習わしています。「お水取り」とは、毎年三月一日から十四日まで東大寺二月堂で行われる、「修二会」という行事のこと。十二日の夜半に、二月堂下の若狭井戸からお香水をくみあげる行法があるので、行事全体がそう俗称されています。
修二会のはじまりは、天平勝宝四年(752)。東大寺別当・実忠和尚が、笠置山の龍穴の奥に入り兜率の内院にもうでた時、菩薩聖衆毎夜深山幽谷にに分け入り観音をただえて礼拝しておられる有難いお姿を見て、それを地上でも行おうと、二月堂を建て修二会の行法をはじめた・・・二月堂縁起は、こう記しています。
この修二会には、ふしぎな話があります。鎌倉時代のこと、過去帳の転読(亡くなった東大寺関係の人々の名を読みあげる方法)を、集慶という僧が行っていた時、突然、青い衣の女人が現れました。そして「なぜ、私の名を読んでくれないのです。」となじるのです。驚いた集慶さん、即座に「青衣の女人」と読みあげました。すると、女人の姿はスウツとかき消えたといいます。それ以来、過去帳には、「青衣の女人」と記載されました。

また、修二会の行われる二月堂の下には、良弁杉と呼ばれる一本の杉の木があり、こんな伝説が残っています。
昔、近江の志賀の里に信心深い夫婦がおりました。夫婦には久しく子がなく、毎日、観音さまに祈願して、ようやく男の子に恵まれました。その子が二歳になったある日のこと、母はクワ畑に仕事に出かけました。そして背中の子供をおろしたところ、空から大鷲が舞おりてきて、子供をさらってしまったのです。母は大声をあげてあとを追いました。だが鷲は、子供をつかんだまま、ゆうゆうと飛び去って行きました。


鷲は奈良の都まで飛んでくると、二月堂下の大杉で翼を休めました。そこへ来合わせたのが、南都の名僧とうたわれた義淵僧正です。義淵はその子を助けおろし、自分の寺で大切に育てました。成長した子供はやがて良弁という立派な僧になり、東大寺建立にも力を尽くして、僧正の位をもらうまでになりました。;
さてこちらは良弁の母。母は三十年もの年月、我が子を探し求めて旅を続けていましたが、ある時、淀川を下る舟の中で良弁の半生の噂を耳にし、もしや我が子ではないかと、奈良の都へのぼってきました。そしてこの杉の下で、みごと母子対面をなしとげたのです。
それ以来、この杉は良弁杉と呼ばれるようになりました。ただ、当時の杉は1967年の落雷で枯れ、今あるのは、植えかえた二代目の良弁杉です。


■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 興福寺のお話続き

興福寺のお話 宝蔵院流の槍


もう一つ、興福寺もまつわる伝説として、宝蔵院の槍の話をします。

昔 興福寺の一院に、宝蔵院という寺がありました。(現在国立博物館が建っている西のあたりにあったそうです。)ここに、槍術が大好き胤栄(いんえい)という法師がいました。胤栄法師は武士四十人あまりと試合をして、勝ち抜き自分の力を示そうとしましたが、望みを果たすことができませんでした。だが、槍術をきわめたいという夢を、あきらめることはできませんでした。
そしてある年のこと、胤栄法師の夢枕に春日明神がたち、のちに宝蔵院流槍術の特色となった、磬と鎌槍、地蔵仏を受けられました。それに力を得た胤栄法師は、その後、猿沢池にうつる月影を相手に、毎夜けいこを続けました。そしてとうとう、宝蔵院流の槍を開眼したのだと伝えられています。

外部資料

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 興福寺のお話

興福寺 十三鐘の石子詰

外部資料
奈良公園、東大寺、興福寺・・・。どこをあるいても目につくのは、きれいな毛並みとつぶらな瞳は、春日大社の神の使いとされています。昔、鹿は非常に大切にされ、鹿に危害を加えたものはきびしく罰せられました。「鹿を殺せば石子詰」といって、死んだ鹿と一緒に生き埋めにされる刑まであったのです。
これは、そのころのお話です。
興福寺の中、三条通りの石垣より南側に、俗に十三鐘といわれる菩提院大御堂があります。むかしこのお堂の横に寺小屋があって、お寺のお和尚さまがニ、三十人の子供たちに読み書き算数を教えていました。その子供たちのひとりに、三作がいました。
ある日、三作が習字をしていると、一頭の鹿がやってきて、廊下に置いてあった草子をくわえて行こうとしました。三作は「こらツ」と叫び、けさん(文鎮のようなもの)を投げつけました。すると打ちどころが悪かったのか、鹿はその場に倒れ死んでしまいました。


さあ、三作は鹿を殺してしまったのです。幼い子供といえど、罰をのがれることはできません。三作も石子詰の刑に処せられることに決まりました。
大御堂の前の東側の庭に大きな穴が掘られました。そこに死んだ鹿と三作が入れられ、上から小石が投げ込まれていきまさいた。三作の母親は、気もくるわんばかりに嘆き悲しみましたが、どうすることもできません。
その後、三作の母はそこに供養のもみじの木を植えました。鹿とモミジという取り合わせは、そこから生まれたと言われていまさう。
また、夕方の六つと七つの間に石子詰になったので、ここを十三鐘と呼ぶそうです。

外部資料

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 唐招提寺のお話

唐招提寺 竜神と仏舎利、和上様のこと

外部資料


「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」。
奈良をこよなく愛した歌人・会津八一は、昭和十五年刊行の歌集「鹿鳴集」の中で、唐招提寺をこのようにうたいました。エンタシス式の列柱で有名な金堂、現存する唯一の平城宮建築である講堂、深い木々の緑と白い砂利、そして数多くの仏たち・・・。
唐招提寺を開いた鑑真和上は、唐の高僧でした。いくたび日本へ渡ろうとしては失敗し十一年、ついに日本の土を踏んだ時、辛苦のため和上の目は盲いていました。
さて、唐招提寺には、鑑真和上の持ち来たった三千粒の仏舎利(お釈迦さまお骨)がまつられています。その仏舎利も、数奇な運命をたどって日本へ渡ってきたのです。
日本へ向かう後悔中のある日、一天にわかに曇り、海が荒れ始めました。そして長さ三寸にも達する大海舵が現れて、船の中央に座する鑑真和上の手から、舎利瓶を奪い取ったのです。思託という和上の弟子が、すかさず海に飛びこみました。大海舵と格闘することしばし、ようやく思託は舎利瓶を取り戻し、船に戻ってきました。ところが海はますます激しく荒れ狂い、船は木の葉のように揺れて、再び舎利瓶は波間にのみこまれたのです。

鑑真和上は、先ほどの大海舵は竜神かその使者に違いあるまい、と考えました。それで一同に命じ、みなで竜神に向けて舎利の無事を祈ったのです。やがて波のうねりがしだいに小さくなっていき、波間にキラリと光るものが現れました。それは、舎利瓶を背にのせた黄金色の亀でした。亀は一人の老人に変身すると、和上にこう語りました。「私はむかし釈迦に教えをうけた輪蓋竜王である。そなたはこれから日本に渡り寺を創建するが、その寺の東南に竜王と白い石が現れ、舎利と寺を護るだろう」とそして舎利瓶を和上に渡し、老人は海に消え去ったのです。
唐招提寺創建の折、本当に白い石が寺の東南に現れました。鑑真和上は池をつくり、竜神をそこに祀りました。今もある鎮守社がそれで、唐招提寺が一千年以上も火事にあうことがなかったのは、この竜神のおかげだと信じられています。


鑑真和上は、天平宝字七年(763年)、76年の偉大な生涯を終えました。だがわたしたちは今でも、和上の姿を見る事が出来ます。みごとな和上像が御影堂の中に残っているからです。

和上像の製作者は忍基という弟子。和上の没する年の春、忍基は講堂の楝や梁が崩れる夢を見て、和上の死を予感し、多くの弟子をひきいてこの像を刻んだと伝えられています。
「若葉しておん眼の雫ぬぐはばや」漂泊の俳人・松尾芭蕉は、元禄元年に和上の像をこう詠んでいます。高さ81せんち、脱活乾漆造り。和上像を守り、さまざまな歴史を秘めて、唐招提寺は今日も静かです。

外部資料

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