「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「明神池の浮木様」

吉野郡下北村の海抜六百メートルもある高い山の上に、池峯という村があります。この村には池の神様をまつる明神池という池があります。
この明神池に浮木様といわれる一種の浮島があります。古い大木の末木のようなもので、苔むして、いろいろの小さい木がその木がその上に生えています。常には見えませんが、時々浮き上がって池の上を、ぐるぐると回るということです。
この明神池のほとりに、むかし、直径三㍍あまりの「矢立の杉」という大きな杉の木があり神木として村人から、おそれあがめられていました。
天正のむかし、豊臣秀吉が大坂城の天守閣を造る時に、この明神池のほとり矢立の杉を献上せよという命が下りました。
ところが、村の人はおそれてこれを切ろうとする者はありませんでした。
そのころ、吉川三蔵および平助という兄弟があって、熊野から北地方を行き来して、
「世にこわいものはあるものか」といっては、夜は登ってはならないときめてある新宮の神倉にも夜間しばしば登山し、乱暴ろうぜきをしていました。その三蔵・平助の兄弟が
「なあに、神木もなにもあるものか」というので、笑ってその切り役を引き受けました。
さて、大きな斧をとって、一度打ちこむごとに、斧のはがつぶれてしまいます。何度もつぶされてはみがき、みがいては打ちこみして、一日中仕事をしても、ほんのわずかしか切れませんでした。翌日、朝早く兄弟はまた斧をとぎすまして、きょうこそはと意気ごんで行きますと、きのうの切りくずは、一夜のうちに元の通り杉の木に返り、どこをきったか、あとかたもありません。これはと驚きましたが、また初めから切りかかり、いくらかを切り進めて帰ってきました。
さて、その翌日いってみると、またまた同じように切りくずは木に返って、木はもとの幹になっていました。そこで、兄弟は考えたあげく、この日のうちに切りくずを焼いてしまって帰りました。こうゆうようにして、とうとうこの神の木を切り倒したということです。
この矢立の杉の末木が池のはたにあって、大坂落城のみぎりに、明神池のまわりを七日の間まわったという話です。その後も、大阪城に不幸や異変のある時には、池の中をまわったということですが、この明神池の浮木様というのは、その名残りだと村の人は考えています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

薬師寺から少し離れて
欽明天皇陵

外部資料
欽明天皇は継体天皇の第3皇子磯城島金刺宮で天下を治められた。治世中仏教が百済から伝わり、蘇我氏、物部氏の対立が激化した時代である。在位23年で崩御、皇太夫人堅塩媛を合葬。推古天皇28年(620)砂磯を以って陵上を築く。
近鉄飛鳥駅から近くです 歩いて約5分

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「子供のための大和伝説」から
「篠原殿」

足利時代のこちょだといいますが、篠原という武士が吉野郡大塔村の篠原へやってきまをした。
村人は、おとなしい彼を篠原殿と呼んで尊敬していましたが、やがて傍若無人なふるまい、人を人とも思わなぬ悪いことをするようになりましたので、たまりかねた村人は、川相撲を催して彼を招待し、策略によって一挙に殺そうと考えました。そこで村人は篠原殿の見物席として木と竹を組んだ桟敷をつくり、止木をはずすと桟敷全体が一瞬にこわれるように仕組みました。
さて、川相撲の当日、篠原殿は桟敷の中で酒を飲んでいましたが、よいつぶれるのを待って、止木をはずしましたので、篠原殿は川の中へはまりこみ、川は血でまっ赤になりました。
絶体絶命になった篠原殿は、虫の息ながら、平素のことをわびたのち、
「村から川瀬峠に登る途中に、大きな岩の中に穴があります。その中に金の銚子と金の盃とをかくして、外から岩のふたをしてあります。そのふたにきざんだ字を読んだらふたが開くようになっていますから、この二品はそれを読み解いた人にあげます。」といって、息をひきとりました。
それ以来、村人はこの品を得ようと努力していますが、まだ見あたらないということです。
この村は、それまで川瀬といっていましたが、篠原殿以来、篠原といわれるようになりました。それでもいまだに元の川瀬といっている人もあります。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記


今日夕方大池(勝間田池) 昨日はパソコン不具合のためブログお休みしました。
本日復旧しました。

天武天皇と皇后の持統天皇を合奏した陵墓である。天武天皇の御名は大海人皇子、天智天皇の弟、朱鳥元年(686)正殿にて崩御。持統天皇は天智天皇の第2皇女、大宝2年(702)崩御。翌年飛鳥の岡に火葬され、大内陵に合奏された。石室は瑠璃を用い、天武天皇の棺は朱色で、床に金銅を敷き 持統天皇の骨壺は銀宮と伝える
持統天皇は天皇として初めて火葬されたお方である

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「源十朗橋」

西吉野村和田の中ほどに、南の山腹から丹生川に流れる小川があり、そこに源十郎橋という石橋がかかっています。
むかし、この村の辻内家の先祖に、源十郎という強いえらい人がありました。生まれつき大力と豪快のような勇気のある人でした。
ある年(明和三年という)のお祭りの日に、村の若者が総出で、山腹にころがっている一枚石を運んできて、小川の橋にしようということになりました。
「こんな大きな石は、十人や二十人では動かぬだろう」
「四、五十人なければ、とても動くまい」
などといっているのを、源十郎は横あいから、
「やってみようじゃないか」
といいました。
どうしてやるのかと、みんな不思議に思っていましたが、源十郎は、
「二十人で一方をかついで、一方をわしひとりでかつぐ。そしたら動くだろう。」
といいました。
その通りにして石を綱で結び、太い杉の木を通し、石の前方を二十人の若者が、うしろは源十郎ひとりが肩をかけました。
二十人がかけ声と共にかつぎ上げると、同時に源十郎もひとりで一方をかついぎ上げました。
源十郎のかけ声で二十人は静々と歩いて、小川の上に石がきた時、それをおろして石橋としたといわれています。