「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

吉野の水

奈良県は日本最初の国造りの地
それには 稲作による支配階級が設立し 国の形が出来てきた。
その中で稲作には水が必要 しかし、奈良は雨量が少ないため ため池が多く奈良にはある
昭和22年からは十津川紀の川総合開発事業計画がすすめられ 25年から奈良和歌山で協定が成立し、猿谷ダムの建設がはじまった。

外部資料


大和平野導水トンネル 31年には吉野川の水がはじめて奈良盆地に流れこんだ。江戸時代以来の悲願がかなった。



■住所630‐8053奈良県奈良市七条1丁目11‐14
■℡0742‐43‐8152
■✉honcafeunon.nara.nisinokyo@gmail.com

#石標奈良県

外部資料 二月堂

外部資料

外部資料 奈良町

外部資料
奈良には今も石標が残っています。石の道標です。それぞれの方向をしめしてくれてます。

外部資料
珍しいものとして東吉野村鷲家には 江戸を示しているものがある。

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#魚梁船「やなふね)

奈良県の発展には交通網を整備する必要がある。
とりわけ鉄道の敷設は悲願とでもいえるものであった。
奈良盆地の水を集めて流れる大和川は、江戸時代から水運が発達し、下流の河内側は剣先船(けんさきぶね)が、か亀の瀬から上流の大和側には魚梁船が通っていた。

外部資料


魚梁船は小型で底が浅く、九枚のむしろで帆を立てていた。初瀬川筋は山辺郡嘉幡村(きはたむら)、寺川筋は式下郡今里村、曽我川筋は十一郡松本村、佐保川筋は添下郡筒井村までのぼった。そのためあちこちに船着き場や問屋が出来た。
もともと、これは江戸時代のはじめ、片桐且元(かたぎりかつもと)が自領の年貢米を大阪へ運ぶため亀の瀬の難所を開き、平群郡立野村の安村家に物資の輸送にあたらせたことにはじまるといわれている。
盆地内の川は夏は農業用水にまわされ、冬は渇水のため利用できなかったが、春には肥料や塩などが上流は、秋には米や木綿などが下り荷として運ばれた。


※魚梁船の盛衰
魚梁船は細長い形をしており、その一回り大きなものを剣先船ともよんでいた。江戸時代には堤防越しに見える帆が大和の春秋の風物詩になっていた。明治15年(1882)になって内陸交通会社が大和川の荷物運搬業務をはじめると、大和と大阪を結ぶ大動脈となっていった。しかし明治25年大阪鉄道が開通すると急速に衰えた。



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#奈良県庁舎

一昨日と同様のものです
建物についてふれたい
たくみに和風の様式を取り入れ、画期的な洋風建築のこころみともいえる新庁舎を設計された。設計にあたっては、「奈良県の地は我美術の粋」であり、「本邦建築の優点を探るべし」という注文がつけられた。
外部が純日本風。正面しびのあがった入母屋造り。そこからまるで翼のように建物が左右にのびる実に独創的な日本式洋風建築であった。
この建物は今の県庁舎まで70年間使われた。

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♯奈良県開庁式

外部資料
奈良県は堺県に併合され 堺県が大阪府に併合された過去があるが、明治20年(1887)奈良県が独立した。
奈良県庁式が明治20年12月1日に挙行された。
新県庁舎にあてられたのは奈良公園内の旧寧楽書院である。
開庁式当日は、奈良の町では、家ごとに日の丸の旗をかかげ 県庁周辺では提灯をつるし、各小学校の子どもたちは県庁前を甲信して祝いの気持ちを表せた。
他の町では山車を引き出す者、花火を打ち上げた人もいたから、やはりお祭り気分の一日であった。

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