「うのん」の気象歳時記ブログ

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「子供のための大和伝説」から
「清次の谷」

吉野郡下市町の石堂という所は、明治32年12月に恩田郡長の仲裁で、下市町の領地と決まりましたが、何百年のむかしから、この石堂屋という所をめぐって、奥郷という丹生村と、口郷という下市側との間に争いが絶えませんでした。
ある年、石堂谷へ入る権利の入会というものを決めるのに、もめぬいたあげく、両方から代表選手を出して相撲をとらせ、勝った方の領有にしようということになりました。
さて、丹生側から長谷村の谷口清次という身のたけ六尺五寸「1.97㍍)もある力自慢が出てきました。
下市側は梨子堂村の村上文左衛門が選ばれました。文左衛門は滝上寺の人足に出ても、ひとりで十人分の仕事をするのは朝飯前といわれ、下市へ相撲をとりにいった時、矢来の青竹をしごいてふんどし代わりにしたので、青竹文左衛門の異名をとったほどの強力無双の者でした。
双方の物すごい声援やかけ声のうちに、石堂谷の領有をかけた大相撲がはじまりました。谷口清次もはじめは、渾身の力をはってがっんがりましたが、勝負はなかなかつきませんでした。すると三つ塚から一羽の鷹が飛んできて、頭の上を回ったかと思うと、文左衛門は清次の体を高々とさし上げ、谷へ投げとばし、清次は血を吐いて即死しました。
いまもこの谷を清次の谷といい、黄イチゴが咲いて清次を弔っているということです。
また、高岳には清次の墓も現存しています。

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