「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くから 大和の気象歳時記№27 雨乞⑧

飛鳥川上坐宇賀多伎比売命神社の場合
 十四文字もの神社名は珍しいです。います処は大和川上上流飛鳥川源流に近い稲渕と栢森の中間右岸宮山の上に在って祭神は宇須多伎比売命 神功皇后 応神天皇を祀っています。土地の人は「宇佐さん」と呼んでいます。「飛鳥古跡考」に「宇佐官ノ下なる川中に少しき渕めり 皇極請雨の所にや」とあります。推古天皇十三年(625年)高麗僧恵灌に命じ青衣を着して三論を購読せしめたところ効があり そのたの彼を僧上に任じたという記事に記録です。皇極天皇元年は6月から8月にかけて大きな旱魃があり、麻庭では様々に方法を尽して雨を祈りました。7月25日「群臣相語りて曰く 村々の祝部の祈教の随に 或いは牛馬を殺して諸々の神を祭ふ 或いは川伯に禱る。既に祈効無し。しいふ さらに続いて蘇我大臣(蝦夷)報へて曰く つまり経蝦夷の意見によって 寺々において大乗経典を転読させ 悔過を行なって雨を祈りました。また百済の大寺の南庭で 仏菩薩と四天王像を飾り 衆僧に大雲経を読ませ 蝦夷は香炉を持ち香をたいて祈願しました。果たして僅かに雨はふったが思わしくなく 最後に8月1日には天皇親ら「南渕の河上に幸して跪きて四方を拝む 天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷ほりて大雨ふる。遂に雨降ること5日あまねく天下を潤す 是に天下の百姓 俱に弥万歳びて曰さく 至徳まします。天皇なり…」あります。雨を祈るには水辺で行う必要があると考えられていたのでしょう。跪拝四方 仰木祈雨 は後世の四方拝を思わせますが 皇極帝が跪拝した場所が宮山宇佐さんと比定する説があり徳治思想が充実していたことが判ります。


ともあれ牛男を殺して生血を神に捧げ 市を移して市場を異所に移して市塵の門を閉じること(乞雨閉南頭者 閉陽則 陰通宜零雨也)すなわち 南門を閉ざすことは 陽を閉じさえば陰に通じ 即雨になるという中国の習俗 または河のかみ〈竜又は蛇は共に河川に住み降雨のカミ)に禱る等して当時の大陸唐代の先進文化の雨乞を駆使したことも分かりました。
当地では 明治のはじめのころまで 雨乞のナモデを「本なもで」と称して行っていました。その後内宮で「かりなもで」が行われました。今また昭和62年11月8日 なむで踊りが復活しゆたかな稔りに感謝し 甘雨順雨を祈っています。

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