「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くから 大和の気象歳時記No.242 流れ③

御所流れ

奈良県気象災害史(元奈良気象台長 青木滋一著)には元文五年七月十七日(1740年9月7日)の洪水について次の様な事が記してある。台風の襲来による洪水渦である。京都には甚大な被害が起こり 大和の國では「和州葛城川洪水 五瀬村の民家多漂流す。」と続日本王代一覧よりお引用している。
また「地名学」の池田末則氏の御所流れによると 生者必滅のがれがたしといへども 変死のともから哀れむべきことなり  そもそも元文五年庚の申年と申すは 天下順にして旧冬より あくる元朝にいたって暖気三四月の頃にひとしく草木花さき 実をむすぶばかりなり。年礼の人々は扇子をかざし暖をしのぐ。しかるに正月中頃より厳冬にして 白雪をふらすことおびただしい。四月の末地震風雨 三度におよぶこれ近年まれなる天変なり 中略六月土用にいたり冷気厳しく民その寒きことを耐えかね 綿入りなどをきてその日をしのぐ。中略はたして同年七月十七日前大末聞の大雨洪水にて山々川々崩れ落ちて水のあふれること 平地は大海のごとし このときあたって 葛城川の堤きれ またうけ堤二カ所まできれてくずれ 後略
また奈良県南葛城郡誌によれば 葛城川支惨流柳田川数カ所堤防決壊し 甚洪水は西御所町一面(当時御所村本郷と称す)を洗い去り 実に惨憺たる光景を顕出せり 御所村本郷流家六百一軒 潰家五十八軒 流藏三百軒 残家四十一軒 残藏十八軒 残寺四カ寺 流死人二百十九人 牛馬十四匹死 とあり 以て甚惨状態ひるべし。とあった。
大和の国では 台風による集中豪雨は金剛 葛城山 を襲ったものとかんがえられます。
葛城川は大増水を起こし 葛城山に降った雨は柳田川で大氾濫となって数カ所破堤を起こし西御所を総なめにしたのでしょう。

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