「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

奈良と日露戦争 陸軍五十三連隊

明治42年(1909)は奈良にとっては忘れることのできることのできない年である。
前年の41年には陸軍の大演習が大和平野に展開され、42年には国立奈良女子高等師範学校・陸軍五十三連隊が設けられ、奈良ホテルが観音山(鬼園山)にたてられるといった画期的な年であった。そのほか春日野グランド実地調査(43年)「大和人物志)の発行、春日神社の47回の正遷宮がおこなわれたと「奈良の近代史年表」に記されている。
日露の戦(明治37年1904 明治38年1905)が終り、平和条約が結ばれたが、軍備の必要性が一層たかまり、奈良にも軍隊をおくことになったのが42年(1909)で当時、高畑 紀寺村の農地を解放しここに五十三連隊の設置をみたのである。
昭和12年(1937)市発行の「奈良市史」には「明治37年38年、戦後の軍備拡張に伴い連隊の事起るや奈良に設置の運動を起こし、市に於いては高畑町に45068坪の土地を買収して之をその敷地と寄付寄付明治明治41年に奈良市に設置され、42年11月新兵舎(今の奈良教育大学の地)に五十三連隊として転じ来る」とある。大正8年(1919)の第一次世界大戦には北満に派遣隊として中国にわたり、満州鉄道の警備の任にあたったが、大正14年(1925)の軍備縮小で五十三連隊は廃止となり、京都深草からの三十八連隊と変わり、昭和9年(1934)4月、満州守備のため勇躍出動し、市では出征兵士の慰問や戦後の守りに専念したが、昭和20年(1945)8月15日敗戦で幕を閉じ9月には米兵の進駐軍の兵舎となった。


本のある喫茶店 うのん
■住所630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡:0742-43-8152
■✉:honcafeunon.nara.nisinokyo@gmail.com
https://sites,google.com/

柳生の里

大部は山地で、そのなかに布目川や今川にそって開発された柳生の里は、六世紀の頃から人々が住みついたようで、塚穴と呼ばれた古墳があり、孝徳天皇の御代おこなわれた大化の改新でおかれた大和六県のなかに「楊生」の地名が記されており、柳生の歴史は古い。平安時代には藤原氏の所領となり、藤原頼道は所領となったが、柳生の里が世上にのぼるようになった。笠置山を守った時からである。さらに全国にその名をあげるようになったのは戦国時代で、柳生氏が筒井順昭に攻められその配下となった柳生宗厳は武道の重要性を痛感し、上泉伊勢守秀綱を柳生に招いて柳生新陰流を生み出し、その子孫宋矩・宋冬が徳川幕府の武道の指南番となり、一万石の大名として柳生に陣屋を築き武道の道場とし、祖先の霊を弔うために芳徳寺を創建し、柳生の里は日本武道の修養道場として栄え、宮本武蔵や荒木又右衛門 といった剣道の士が訪れるようになったからであるが、明治維新の廃藩置県の政変によって柳生藩も柳生県となり、その後、堺県・大阪府下となった。明治21年(1888)奈良県が独立し、柳生も柳生村として独立したが柳生陣屋は姿を消し、芳徳寺も無住の寺となった。大正十年7(1921)芳徳寺は名古屋の柳生家によって再興されたが、柳生新陰流の再興された。


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奈良公園の鹿

奈良公園の光景には鹿があちらこちらにいる。
鹿は世界中どこにでも棲息していたようで、狩人にとっては獲物として最良といわたほどで、鎌倉時代、富士の裾野でおこなわれた有名な狩りも、相手は鹿であった。
しかし、これとは別に白鹿は神の依代として崇敬された。年末にやってくるサンタクロースもカモシカに乗ってくるように、古くからインドではわが国にも伝わり、奈良時代に藤原不比等が鹿嶋から武甕槌命を奈良に勧請した際、命は白鹿に乗ってこられたという伝承を今に残しており、奈良ではそれ以来、鹿を春日の神の依代としてあがめ、この鹿に出会うとまことに目出度いと称し、乗物からおりて神鹿を拝したという古文書があり、鹿の背に榊木をたてそこに鏡をかけた絵を春日鹿曼荼羅として床にかけ、これを拝する風習も今にのこり、奈良の鹿は神鹿として取り扱われてきた。
鎌倉時代に元軍を博多の沖で撃沈させた北条時宗も、神鹿の保護に細心の注意をはらったようで、建治年間(1275~77)の禁制のなかに「神鹿を殺害したものは死刑に取り行なう」と述べている。しかし、織田信長はこの神鹿をとらえている。「多聞院日記」の天正3年(1575)十月二十日の条に
 「信長在京神鹿生取一匹取り上事、去年モ一匹事、前代未聞ノ事浅猿々々」
とある。自分の威信を示すためであったのであろう。豊臣秀吉も天正19年(1591)に9頭の鹿を生け取ったが、西国から15頭の鹿を取り寄せ大宮殿に放っている。
徳川幕府は永禄10年(1567)「「神鹿殺害 山木伐用」の禁制を出し、神鹿の保護に努める一方 鹿守をおき野犬 蓄犬の徘徊を取締、奈良町の入口には木戸を設けて町外への進出を防いでいる。


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春日大社鳥居鳥居

外部資料


平城京の三条大路が七坊大路と交わるところにあるのが春日大社の一の鳥居で、ここから春日大社の参道が真直にのび、鳥居の右側に春日大明神が鎌時代に翁の姿となり翁舞を演じられたと伝える影向の松があり、春日若宮おん祭の際は、この影向の松に対し、細男・猿楽・田楽といった諸芸能が演じられ、この一の鳥居からの渡行を上の渡りと称し、競馬や流鏑馬、大名行列などの儀がおこなわれる。
一の鳥居はこのように春日大社への参道を示す重要入口であり、ここからは神聖な春日大社の境内であることを示しているといえよう。
春日大社の一の鳥居はわが国の重要文化財に指定される。「現在の鳥居は昭和36年(1961)の第二室戸台風で倒れたので、古式に則り再建されたもので、高さ6.75㍍足元柱間5.2㍍、柱の直径0.98㍍ 地下1.9㍍に埋置された礎石に掘立てられ、笠木は黒にその外は朱を塗った。創建は詳かではないが、春日大社の社伝によると承和3年(836)とあるが、文献によると康平6年(1063)といわれている。いずれにしても春日大社創建といわれている神護景雲2年(768)より後にたったものであることには間違いない」と「奈良市史建築編」に書かれている。



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大安寺 2

大安寺の境内に竹が植えられている。
竹で温めた酒がガンの予防に有効であることがわかり、古くから九州地方の農家で山仕事や農作業の際、竹筒で酒を温められている風習のあるため、大安寺の再興に工夫に工夫を重ね、有職者との懇談の結果、考え出されたのは ガンにかからぬ予防として笹竹をふるまうことである。
笹竹は野外で焚火で太い竹の筒に清酒を入れてあたため、それを笹の葉付の小さな竹筒の杯にうつす。その時、自然におこるコボコボといったかすかな音は和やかで、酒酒をいただく。この行事によって ガン封じの寺として知られるようになった。


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