「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 大柳生のお話

おりゅうの森  奈良市
むかし、奈良市東山中(ひがしさんちゅう)、大柳生の山口神社のすぐ北の田圃の中に
こんもりした森があってな。その森に、天をつくようなでっかい木がはえたっんで、土地では「おりゅうの森)っていうてやんがー。
ちょうどそのころ、京都の三十三間堂を建てることになってな、その長い棟木を、三十三間つぎ木のない一本ものの柳の木でしようということで、諸国に布令を出してさがしやってんと。
ほたら、奈良の東山中の神戸(かんべ)西ヶ郷の中の山口神社近くにある「おりゅうの森)が選に入ってな。そこの柳の大木が伐り出されてんと。そいで 大柳生 ということや。

外部資料
この柳は弘法大師が杖をこの地に挿したものといわれています。



■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡ 0742-43-8152

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 桜井市のお話

鶴の塔
むかし、栗原谷の六本ちゅうところに、浦西いう家があってん。そこの主人が、ある日、東の空を見てやったら、病にかかった一羽の鶴が、よなよなと舞い下りてきよってん。
ほいで、主人はかわいそうに思はって、家のものどもといっしょに、親切に世話してやらったおかげで、鶴はしばらくの間にすっかり元気になって、もとどおりに治ってな、うれしそうに西の方へ飛んでいっこてん。



ほたら、その後、この家の上を、前に助けてやった鶴が、何回も何回も飛び回って、一巻の曼荼羅を落としていきよってんと。それを開けてみやったら、美しい鶴の羽根で織った綾錦やってんがー。家の人々は、
「あの鶴が、自分の毛を抜いて、つくりよってんやろう」
そういうて、鶴の供養のために十三の塔を、鶴が飛んで行った西の空がようく見える丘の方へ建ててやらってんと。
そいで、今でもこの塔を「鶴の塔」っていうんてんね。

外部資料
〈鶴の塔は今は栗原寺境内にうつされている 鎌倉時代後期〉

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
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薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 北葛城郡

大和のカエルと河内のカエル  
むかし、大和と河内に帰るがいよってん。
大和のカエルは、
「こりゃま、河内ちゅうとこ、この山越えたらあるちゅうこっちゃが、いっぺん見たいもんや。」
ちゅうて、のそのそ、岩屋峠ちゅう坂、登って行っこってんと。
ほたら、同じころ、河内のカエルもな、
「大和ちゅうとこ、死ぬまでにいっぺん、見たいもんや」
そういうて、むこうから岩屋峠ちゅう坂登ってきよてんと。

外部資料

(岩屋峠 大阪府 奈良県にまたがる峠 標高474.2mの二上山雌岳南方に所在)


ほいで、両方から登ってきっよた両方のカエルが、山のてっぺんで、ふっと出会うたんやと。ほて、
「おお、おまえどこへ行くねや」
ちゅうたら、
「わしゃ、河内かた大和を見に行こうと思うとんねや。おまえ、どこへ行くんや」
「わしゃ、大和で大きゅうなってんけど、いっぺん河内あ、おまはんとこ、見たいと思て、これから行ってみたろうと、ここへ、登ってきたんや」
「あ! そうか、へたら二人ながら、わざわざ見にゆかんでも、ここで伸びあがって、のぞいてみようじゃないか。ほたら、よくわかるで!」
と、河内のカエルがいおったんで、大和のカエルはな、
「そやな、それもよい。ほんならここで、たかーいとこへ登ってのぞうこうか」
そういうて、河内のカエルも、」大和のカエルも、
「よいしょ」
そういうて、腰のばして見よってんと。ほたら、カエルの目玉ちゅうのん、うしろの方についとるさかい、立ちあがりよったら、自分があるいてきよった方がみえたんやが。
大和のかえるさん、大和の方みてな、
「あーあ、河内ちゅうのんは、大和によう似とるわ。キミ―、ほんとに大和とちっとも違わんで)
ほたら、河内のカエルも、
「なーるほど、キミーのいうとおりや、大和と河内はそっくりじゃ、ほんならわざわざしんどいめーして見に行くことないで」
そういうて、大和のカエル、河内のカエルは、登ってきた坂を下って行こてんと。

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■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 長谷寺のお話

蓑丸長者 桜井市
むかし、初瀬から宇陀へ越える山の峠に、ある若いもんがおったんや。それが十九のある日、一日のうちにオトウとオッカアに死なれてしもたんや。涙にくれてたが、野辺おくりがすんでから、親の菩提をともらうねというて、長谷の観音さんへ月詣りをはじめよったんや。若いもんは正直で、よう働きよったが、貧乏やった。
三年間、月詣りをしよったが、結願の夜、長谷寺の観音さんの前で三籠して、すき腹をかかえながらもう、とぼとぼ、峠へ登って清ってん。ほたらイモの蔓が、地面を這うとるんで、掘っていかはったら、底から壷があらわれてんと。
そいであけてみやったら、小判がいっぱい詰まっておってな。しまいに長者にならってんと。ほてから、長者はんは観音さんにお礼のために上げやった十三重塔は、いまも長谷寺の塔頭に立ってるそうや。

外部資料 塔頭です 十三はないですが 想定できるもの


ほてからむかし長者屋敷があったところの北側の谷を「タイの骨」ちゅのは、二代目の蓑丸長者がぜいたくしやって、毎日食べやったタイの骨が埋まったところや。

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 桜井市のお話

三輪山で力くらべ 
むかしのことや。
三輪山の南に川合ちゅうとこがあってな、そこを流れる栗原川(ゆうばら)に架かったったちったちっちゃい石の橋をこんにゃく橋っていうのや。その橋のたもとに、ちょっとした石があったんやと。
むかし、唐の使いがわが国へきたはじめたころの話やが。あるとき、唐の使いの賀王と日本の代表の仁王が口争いをしやってんと。どちらも争いつづけやって譲らはらいんので、とうとうしまいに、
「それでは、力くらべをしてきめようではないか」
ちゅうて、まず、唐の賀王がさっそく三輪山へ登らってんと。
ほて、賀王は、三輪山の頂上」から、ものすごう大っきい石を両手でさし上げて、仁王が立ってる川合の里めがけ、ありったけの力を出して、投げつけやってんがー。石は、川合の里へむけてうなりを立てて飛んでゆきおってんと。ほたら、川合の里で待ってらった仁王は、飛び落ちて来る大石にビクともしやらひん。持っていた棒で、「エイッ」って、たたき割ってしまやってんと。
ほてから、その石の半分を小川に架けやったのが、こんにゃく橋となり、もう半分を橋のたもとに置いときやってんと。そいから、賀王にかった仁王が川合の里のとなりに住み着きやったんで、今でも川合の里の南に仁王堂というところがあるんやと。

外部資料 栗原川


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