「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

大和の味 昔のおやつ

しきしき焼き

外部資料

しきしき焼きとは、メリコン粉を水で溶き、少し砂糖を加えてフライパンで薄く焼いたもので、上等のしきしき焼きには卵が入っている。焼きたてをくるくる巻いて食べる。ホットケーキの薄く焼いたものではあるが、ベーキングパウダーも入ってなく、甘みも少なく クレープのようなものである。


洋食焼き
メリケン粉を水で練って(砂糖は入れない)フライパンで薄く焼き、上に刻みネギ、削りカツオ、青のり粉 干しエビなどをのせ、ウスターソースを塗ったもので、屋台店でよく売りにきたものである。今のお好み焼きの全身である。


はったい粉
はったい粉は、小麦をいってから粉にひいたもので、香ばしいので、「こばし」ともいう。砂糖と混ぜて、そのままスプーンで口に入れておしゃべりしたり笑ったりすると、粉が散って顔中粉だらけになるので、面白がって笑わせ合いをしたものである。食べやすくするために水や湯で練って食べることもある。


本のある喫茶店 うのん
■住所奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡0742-43-8152
■✉honcafeunon.nara.nisinokyo@gmail.com
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大和の 味 大和西瓜

外部資料

原産地は熱帯アフリカといわれている。我が国に伝来して、戦国時代には大和平野に広がったとのことである。ローマを経て、「海のシルクロード」を渡り、琉球(沖縄)から薩摩(鹿児島)、大和へ渡ってきたとの説である。西の方から来たところから、「西瓜」、また水分が多く、英語のウォーターメロンから「水瓜」と当て字が用いられている。
初めはウリとして野菜扱いをされ、あまりおいしいものではなかったが、明治の末期に奈良県農業試験場で本格的に栽培の研究が行われ、品種の改良を重ねて、強健で豊産、品種の良い、おいしい「大和スイカ」の名が全国に知られるようになったとのことである。
戦前までは大和平野は一面スイカ畑で、初夏に果実が大きくなるころ、スイカ泥棒を見張る番小屋がところどころで見られた。今はイチゴのビニールハウスに変わったとはいえ、昭和61年度は245ヘクタール、6320トンの産額があったとのこと。
大和スイカの種は今も全国各地から求められ、それぞれの地方で別名がつけられている。
奈良の「奈良漬け」には直径6センチくらいの小さなスイカが用いられているが、一番成りを大きくすると後のものがだめになるので、これを摘み取って奈良漬けにする。

柿の葉寿司 奈良の味

外部資料

夏の終わりころになると、柿の若葉がみずみずしく大きく広がってきて、大和の国中から南の方、御所や五条、吉野地方の農家では柿の葉ずしをつくり始める。夏祭りから柿の葉が赤くなる十月末ごろまで、この地方では晴の日(ふだんと違う改まった日のこと)のごちそうとして夏祭り、盆の「やぶ入り」、秋祭りなどに家ごとにつくられるのである。
最近は柿の葉を塩漬けにしてほぞんされ、一年中、大和の土産物として売られるようになってから形も小型になったが、昔はすし飯を大きく握って塩サバの薄切りをのせ、一枚の葉で包みきれないので二枚で包み、二日ほど圧しておく。夏秋になると、少し紅葉した柿の葉で包んであるのはまだ風流なもので、ひとしおおいしさを感じる。
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の中に、吉野の柿の葉ずしについて、次のように紹介されている。
「米一升には酒一合の割で飯を炊く。酒は釜が噴いてきたときに入れる。飯がムレたら完全に冷やした後に、手に塩をつけて固く握る。この際、手に少しでも水気があってはいけない。塩ばかりで握るのが秘訣だ。それから別にアラマキを薄く切り、それを飯の上にのせて、その上から柿の葉の表を内側にして包む。柿の葉も、サケも、予め乾いたふきんで水気を拭き取っておく。それができたら、すし桶でも飯櫃でもいい、中をカラカラに乾かしておいて、隙間のないように鮨を詰め、押蓋を置いて漬物石ぐらい重石をのせる。今夜漬けたら翌日あたりが最も美味で、二~三日は食べられる・・・中略・・・東京の握りずしとは違った格別な味で、私などはこのほうが口にあうので、今年の夏はこればかり食べて暮らした。」
多分昭和の初期に書かれたと思われる。当時、吉野の山林を持っている旧家は金持ちが多く、北海道から入ってくる新巻は高価なものであって、一般の家では塩サバを用いたものである。
交通不便な昔は、熊野灘で捕れたサバは浜で塩をして、歩いて山越えで大和の国中まで運ぶのに三、四日はかかり、ちょうど塩サバの食べごろになっていた。海のない大和では重宝な魚であったに違いない。
柿の葉ずしに渋柿の葉を用いるとよいといわれるのは、柿の渋は防腐剤であり、またタンパク質を凝固する性質があるので、サバの身を締めるのに良いからであろう。
塩サバの締め具合、すしお飯の味付け、圧し加減んなどは、それぞれの家のつくり方が多少の違いがある。


本のある喫茶店 うのん
■住所奈良県奈良市七条1丁目11-14
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七夕に食べる素麺

七月七日は五節供の一つ「七夕さん」である。この夜に、天の川をはさんで牽牛星と織女星が白鳥座辺りに群れをなして飛ぶカササギびよって一年にただ一度逢うというロマンチックな星の伝説は、中国から奈良の都に伝えられたものといわれている。やがて、この伝説が農民の実生活と結びついて、牛を引く彦星は食料を生産し、機を織る織女星は衣料の生産に努める宿命の星として祭られるようになった。
この日、朝早く里芋の葉んぽ露を集めて墨をすり、色どりの紙を短冊に切って願い事を書き、ささの枝に結び付ける風習は、今も幼稚園などで行なわれている。
大和の農家では、天ノ川の見える縁側などに祭壇をつくり、ウリやナス、枝豆と共に冷やして素麺を供える風習がある。関東では冷麦を食べるようであるが、織女星がつぐむ糸に見立ててたのであろう。暑い夏のさわやかな食物である。
素麺は、奈良時代に中国(当時の唐)から伝来した手法で、「延喜式」(平安時代に記された、宮中の儀式作法や食生活について書かれた本)には索麺や索餅(さくへい)などの文字があり、小麦の粉を縄状にして乾かしたもので麦麺ともいい、今も大神神社の神鐉(しんせん)には「むぎなわ」として奉納され、中国の餅は今でも小麦粉の練ったものである。
正倉院文書のも奈良時代、すでに索餅が宮中の儀式の席や宴席に用いられた記録もあり、索麺が素麺の原形らしく、その後、禅寺で中国読みの素麺(スーミェン)と言ったのが、「そうめん」になったようである。
中国の麺が奈良時代、シルクロードにより東方の日本に渡来して、小麦の栽培と初瀬川や巻向川で水車による製粉に適した大和の三輪の里でつくられ、一方、マルコ・ポーロによりシルクロードを西進していたりあでパスタとなり、マカロニやスパゲティとなった。
日本最古の官道「山辺の道」にある三輪山の伝説に「活玉依毘売がある夜訪れた男と恋をして、毎夜毎夜通ってくる男の名も素性も知らぬまま身ごもってしまい、男の衣のすその糸をつけて、その糸をたぐって行くと三輪山に続きそこに蛇の姿を見た。それっきり男は来なくなった。」という。三輪の里で作られた素麺をこの神話になぞらて、「三輪の糸」というようになったとのことである。
素麺は他の地方でも作られているが、元は江戸時代に奈良の西方から「お伊勢参り」をした人たちが大和で素麺を食べ、その製法技術を習ったようである。一般の家で素麺を食べるようになったのは江戸時代からのことである。


本のある喫茶店
■住所630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡:0742-43-8152
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大和の味 桜の花と葉の塩漬け

経今日の風景 奈良の枕詞 青垣 です

大和は至る所桜の名所がある。とりわけ。奈良公園 大和郡山城跡 御所市の葛城川堤防、大和高田市 大中の高田川堤防 吉野山 平城宮跡 また多くの神社仏閣の桜もそれぞれに見事なものが多くある。八重桜は奈良の県花である。
桜で有名な吉野の名物の一つに「桜の塩漬け」がある。
塩漬けにするのは、八重桜の五分咲きのもので 塩をさっと洗い落として吸い物やお茶に浮かすと 上品な香りがする 酢の物や和え物の天盛りに用いるのもよく、菓子によく使われる。桜餅は一般的によく知られている。