「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

嫁取り橋 奈良県筒井


大和郡山市の南 昔の筒井村に一軒の茶屋があった。十八になる こま という生娘がいた。娘は毎日ここを通って大阪に通う二十四、五の業平を思わせるような美男子の飛脚を恋い慕うようになった。ある日、飛脚が夕方おそく通りかかったので、娘は無理に男を泊まらせた。夜更けて娘は異様な姿をして飛脚の部屋に忍びこんだ。これを見た飛脚はたいへん驚いて逃げた。男は親の病を治すため三年間女を絶つ誓いを立てて神に祈願していたのであった。娘は男のあとを追って行ったが、男は東へ走りちょうど大きな淵のところへきて、そばにある一本の松の木によじ登った。娘はそこまで追ってきたが男の姿は見えず、脱ぎ捨てた一足の履物が見つかった。するとちょうど日の光で男の姿が鮮かに池の中に見えたので、娘は男を求めて水中に飛び込んだ。そして大蛇となってしまった。大蛇となった娘は、その後女さえみれば恋人を他人にとられるのを恐れて、殺してしまった。あるとき駕籠かきが駕籠を木陰において、村へ雨具を借りに走った。帰ってみると花嫁の姿が見えない。これは大蛇が雨を降らせて騒がせ、その間に女をとったのであって、それで今でも淵の前の小川にかかる橋を嫁取り橋といい、嫁入り道中はめったに通ってはいけないとされている。

■住所奈良県奈良市七条1丁目11-
■℡0742‐43‐8152
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牛の宮 大和平野

大和郡山市の町から斑鳩への道をとると小泉の慈光院に至る。自光院は晩年の片桐石州が隠居したところで、その茶室は不味堂(ふまいどう)と、大刈込を配しただけだが、大和平野を背景としたじつにダイナミックな構成美をを持つ庭は名高い。この手前に池之内という集落があるが、そこに牛の宮という塚がある。東西13メートル南北10メートルほどの円墳で、

外部資料

もとは堀もあった。昔ある百姓衆が六か年の約束で、一人の小僧を雇った。小僧はよく主人に仕えたが、約束の半分の三年たったとき、ふとしたことから病気になって死んでしまった。その後主人の夢枕に小僧が現れ、生前の主人へのお礼を言い、残り三年分は明日伯楽が引いてくるはずの牛で補ってほしい。毛色は真っ黒で、時刻は朝六つ半刻と告げて消えた。はたして翌日、夢のとおりに伯楽が牛を連れてきた。主人はそれを買い取って使ってみるとじつによい牛で、ほかの牛の二倍も三倍も働く。そして三年たつと、何事もないのにその牛が急死していまった。主人が深く悲しんで塚を築いてその牛を葬ったのがこの牛の宮だという。

垢かき地蔵 大和郡の洞泉寺

外部資料
洞泉寺の境内に垢かき地蔵がある。昔、郡山城主大納言秀長と洞泉寺開山宝誉上人が、天正14年(1586)六月十四日夜の卯の刻に、同じ夢を見た。その夢に教えられて郡山城大書院西庭の沓脱石を掘り起こすと、それは立派な地蔵像であった。寺社奉行に命じて調べさすと、光明皇后祈願の垢かき地蔵尊であった。光明皇后が難病で苦しむ人のために、大きな石に地蔵尊を浮き彫りにし、それを石の湯舟の上に安置して、上から湯を流して足元から湯槽にはいるようにされていた地蔵で、いかなる難病もその湯を浴びると平癒したというのであった。それで秀長は立派な地蔵尊を造って、そこに像を祀ることにした。
この地蔵のかたわらに大きな湯槽がある。垢かき地蔵から流れる湯がこの石風呂に入る仕掛けになっている。地蔵と一具のもので、法華寺の本の阿シュク寺から北山に移され、さらに天正年中(1573-92)郡山築城に城内に運ばれ、秀長によって洞泉寺に移された。

■住所奈良県奈良市七条1丁目11-14
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源九朗狐

外部資料

大和郡山市に洞泉寺町に祀られる稲荷は源九郎狐といい、日本三大稲荷の一つとして知られ、また童謡に、
 「大和の大和の源九郎さんあそびましょう」
というのがあるように、人々に親しまれていた。源九郎というと源九郎義経のことだが、「義経千本桜」という芝居にでてくる狐忠信は、この稲荷の化身であった。静御前が義経を尋ねて吉野山への道をさまよっているとき、この稲荷の白狐が忽然として現れ、静の家来に化けて義経のかくれる吉野山に無事送りとどけたという。そこで義経はこの稲荷明神を深く信仰し、奥州に下るとき源九郎の名を贈って訣別したところから、源九郎稲荷とよばれるようになったという。

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弁慶の足型 大和郡山城

外部資料

大和郡山は、県下随一の城跡をもつ典型的な城下町である。「洞が峠の順慶」といわれるように、豊臣秀吉の山崎合戦で汚名をうけた筒井順慶が最初の城主。のち秀吉の弟秀長が封ぜられてから、いらい城主はたびたびかわるが、一時は奈良を圧する繁栄を示し、享保以後は柳沢氏15万石の居城であった。この郡山城三の丸北、番所跡の石垣の一石に大きく足型にくぼんだ個所がある。昔、弁慶が踏んだ跡だと伝え、今も弁慶の足型とよんでいsる。

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