「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
密教と竜蛇信仰
密教の請雨法 特に 請雨経法において祈願の対象は竜王であった。竜王の信仰は現在までも続いていて雨乞習俗とは深いかかわりがある。竜王は水中に住み雲を呼び雨を降らす能力を持つものとの信仰があって「大雲林請雨経」によれば竜王は一切衆生のために安楽を施し甘雨を降注するとある。「孔雀明正経」には竜王の名を講せば甘雨降注して苗稼を成熟さすべきことを説いている。もともとはインド神話の中に竜は蛇の神格化されたものであろうとされている。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「金龍寺の観音」

天理市の山田というところは、むかし山田道安(やままだどうあん)というえらい人の居城のあったところで、その山中の村里はなれた山奥に、梨の木谷という深い谷がありました。
むかし、ここにささやかなお堂がありました。ひとりの狩人が、大雪の日にここで一匹の男鹿を射ましたが、大雪のためうちへ帰れませんでした。それで、やむを得ず、その鹿を殺して食べ、お堂で一夜をあかそうとしましたが、しばらくするとおなかが大へん痛くなって食べたものをみんなはき出すというしまつでした。
その時、観音さまが頭の上に現れましたので、
「もうこれからは決して殺生はいあたしません」
とおちかいしますと、観音さまはお姿を消されました。
そんなことがあってから、この人はその観音さまを信仰していますと、ある日、またお姿を現わして、
「おそろしや梨の木谷の夜ふけて梢にさけぶ声は何鳥」
とうたわれ、高山へいきたいとお告げになりました。
それで、その人は観音さまを背負って、となり村の馬場の高山へお供しました。
そこは今の山辺郡都祁村大字馬場の高山というところで、ここに金龍寺というお寺が、高いところにありますが、そこの聖観音菩薩が、この梨の木谷からこられたという観音さまです。
高さ30センチにみたない、小さな木彫りの仏像ですが、飛鳥時代の作で、千三百年もむかしのものです。奈良博物館に出られたことがあります。
この金龍寺は山田道安の隠居していたお寺だといいます。

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「子供のための大和伝説」から
「寒つばきと霊木」

天理市の丹波市から南方、御霊神社から三味田(さんまいでん)あたりにかけて、田のあぜに寒つばきという寒中に穂を出すツバナ(チガヤのこと)が生えています。
天正の乱世のころ、この東方にそびえる十市城の十市遠忠(といちとおいただ)を攻めた越智玄蕃頭が北国から寒つばきを移植しました。それは、この花穂が寒中に白い剣のように輝くので、兵士がたくさん槍を持って立っているようようにめせるための擬装だったのだといいます。
(この」草は麻疹にもよくきき、女子のこしけの薬用にもなるので、明治初年までは京都の公家の奥方が、この寒つばなを採取にきたともいいます。)


三昧田から東南にあった中山という所に中楽寺という古いお寺があって、十一面観音菩薩
像があります。
むかし、行基菩薩が中山のある草庵で一夜あかされたことがありました。その時、長山の土中から、光を放つものがあります。行って見ますと、それは一つの朽ち木でありました。これは霊木であるといって、みずからこの木をもって観音菩薩の像を刻まれました。そしてお堂を建て、これを安置し、中楽寺とされました。
ところがこの寺は天正四年、十市城が落城した時、兵火にかかって焼けてしまいましたので、今あるお堂や、菩薩像はその後の天正以後のものです。
むかし、

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「子供のための大和伝説」から
「馬魚」(ばぎょう)

天理市の石上神社の南に、むかし内山永久寺という大きな古い寺があちました。内山という所にあるので内山寺ともいい、永久年間にできたもので永久寺ともいったのです。
明治の初年に全部なくなってしまったのですが、本堂前にあった本堂池という池だけが残っていてそこに馬魚という 草を食うめずらしい魚が住んでいます。
いまは石上神宮の鏡池へも、東大寺大仏殿前の鏡池へも移されていて、県の天然記念物に指定されています。大仏前の方は行く機会があるでしょうから、のぞいて見られると、馬魚が列を作って泳いでいるのを見ることもできるでしょう。鯉に似ていて鯉より扁平ですこし細いようです。
さてこの馬魚については、こんな伝説が伝わっています。
むかし、後醍醐天皇が京都から吉野山へおしのびになっていかれる時、この内山の永久寺までお越しになり、ここの萱の御所で御身をひそめておられました。その時、御乗馬がこの池のほとりで亡くなりました。その馬の亡魂がこの馬魚になったのだということです。


これはこの馬魚がめずらしく草を食うというので生まれた伝説なのですが、後醍醐天皇が吉野へ行かれる途中で、この寺へ寄られたということはあったようです。それで、後醍醐天皇の馬が馬魚になったという伝説になったのだと思います。
学者の先生の研究によると馬魚の実名はワタカといって、もとは琵琶湖と淀川にすんでいる日本特産の魚だそうです。永久寺の放生会(ほうじょうえ)の時に、誰かが淀川付近のワタカをこの本堂池へ放ったのが繁殖したのではないかということです。

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大和の雨乞の歴史読
請雨が仏教儀式によって行われた最も早い例は先に記したとおり推古天皇三十三年(652)高麗僧恵灌に命じて青衣を着て三論を購読せしめたところ効があり そのため彼を僧上に任じた。(扶桑略記)次にこれも先に記したが皇極天皇の記事、蘇我大臣(蝦夷)の意見によって、寺々において大乗経典を転読させ悔過を行って雨を祈ったこと、飛鳥の大寺の南庭で仏菩薩と四天王像を飾り衆僧に大雲経を読ませ 蝦夷は香炉を持ち香をたいて祈願したとある。ここにいう大雲経とは晴雨の法を説く「大雲輸請雨経」のことでこのころすでに輸入されていたらしい。なお天平神護二年(766)六月三日の正倉院文書くによれば祈雨法を行うためにこの経を奉請している。称徳天皇の御代。その後天武天皇五年(676)夏の大旱には諸社に奉弊 僧尼を請して三宝に祈らしめ 同十二年(683)と持統天皇二年(688)には百済僧道蔵をして雨を乞はしめている。(日本書記)さらに慶雲二年(705)六月二十七日には京畿の浄行僧をして雨を乞わしたとある。